ケース8 じんめんそう㊲


 

 目を覚ましたかと思えば何もかもお見通しのような口ぶりで言う卜部に愕然としながら、かなめは窓に張り付く女の怪異に目をやった。

 

 嗤っているが、はみ出た目の奥には言い知れない狂気と渇望が渦巻いている。

 

「教えてください……櫻木家って何なんですか……?」

 

「まずはこいつをなんとかしてからだ……」

 

 卜部はそう言って窓に歩み寄った。

 

 部屋の空気が冷えていく。

 

 固唾をのんで見守っていると、卜部はそっと窓に手をかけた。

 

「死してなお未練を残すほどの代物か……?」

 

 ぼそりと呟き、開けた窓から初春の冷たい夜風が吹き込んだ。

 

 血の匂いを乗せた風が、女の見た最後の景色を運んでくる。

 

 それは卜部と渡った、あの日の歩道橋によく似ていた。

 

「あれが無いと……気が狂いそうになるの……苦しくて苦しくて……人を食べそうになりました……だから……」

 

「自死を選んだわけか……」

 

 女はコクリと頷いた。

 

 そのせいで、目玉がぼとぉ……と地に落ちて、コンクリートのベランダに黒いシミを作る。

 

「それなのに……死んだはずなのに……まだ欲しいのぉぉおおおお……‼ あれの甘美な味が忘れられない。脳味噌が溶け落ちて、目玉から幸福が溢れ出す。とろぉ……って。トロぉ……ってね? 脳髄が目玉から溢れて、脱糞しそうになるのよ⁉ お魚を買い忘れた時でも、関係無いの。ひどく旦那に叱られて、心臓から迸りましたのよ? 天変地異というよりも天地創造のほうが的を得ている気が致します。口いっぱいに広がる血潮は母なる膿の臭気を撒き散らし、血餅と血痰と血尿のカクテルがわたしを天国に連れて行ったものよ? お願いします。正しいお方……もう一度私を天国に連れて行け……‼ 地獄はもう嫌だぁあああ……‼」

 

 支離滅裂に叫んだかと思うと、女はぐちゃぐちゃに折れ曲がった身体で卜部に飛びかかった。

 

 しかし卜部は慌てることなくその頭を鷲掴みにした。

 

 こぉぉぉぉ……と音を立てて卜部は息を吸う。


 その瞬間、部屋の満ちた鉄錆の臭いが消えて、残った女の目に恐怖の色が浮かんだ。

 

「お前の未練は永遠に消えない。それがある限り地獄は続く……永遠の地獄なら……いっそ消え逝く方がいい。卜部誠の名に於いて……臓腑の底に閉ざされた霊蔵たまぐらの戸を開く……」

 

 卜部はそう言うと女の眼孔深くに指を突き刺した。


 耳を覆いたくなるような悲鳴が真夜中の建物に響き渡るが、誰かが起きる気配はない。

 

 ずるずる……ぶち……

 

 ぐっちゃぁあぁ……

 

 血と粘液の糸を引きながら、緑に光る何かが卜部の指先に現れた。

 

 女の身体はビクビクと痙攣し、抵抗する様子はない。

 

「先生……それって……」

 

「そうだ……魂と呼ばれる代物だ……」

 

 かなめの呼びかけに短く答えると卜部はそれを口に運んだ。

 

 かなめの脳裏に団地での出来事がよみがえる。怪異を食い散らし、酷く苦しむ卜部の姿が。

 

「駄目です……! 目が覚めたばかりなのに……! またお腹がいたくなっちゃいますよ……⁉」

 

 慌てて駆け寄り卜部の服を掴んだが、卜部は苦虫を噛み潰したような顔でかなめを見ながら口を開いた。そこにはもう魂の痕跡は見られない。

 

肉穢写ししえしゃと一緒にするな。あれとは全く別物だ。どうせ近々……」

 

 そこまで言って卜部は口を閉ざす。

 

「近々なんですか⁉ 何を隠したんですか⁉ 白状してください!」

 

「ええい黙れ! だいたい、何が腹が痛くなるだ⁉ ガキでもあるまいし……!」

 

「いつも痛くなるじゃないですか! 助手には知る権利があるんです!」

 

「教える義務はない!」

 

 睨み合っていると部屋の明かりがついて二人は同時に廊下に目をやった。

 

 そこには怒りの形相を浮かべたホーリーが立っていた。

 

「誰だ……?」

 

「ホーリーさんです……」

 

「何を怒ってる……?」


 かなめはその問いに小さく首を振った。 


 小声で囁き合う二人を見据えて、ホーリーがゆっくりと口を開いて言った。

 

「あなた達……夜中に大声で近所迷惑……! それと……」




「独身女の家で痴話喧嘩は止して頂戴‼」

 


 卜部は何か言おうと目を見開いたが、睨み返すホーリーの迫力に気圧されたのか、小さな声で「すまん…」とつぶやいた。

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