ケース8 じんめんそう㉝


 何かが弾けた音がして、卜部はそのままの姿勢で動かなくなった。

 

 見ると僅かに震える卜部の首筋には冷や汗が伝う。

 

「かなめ……‼‼‼‼ み……」

 

 そこまで叫んだ卜部の声を、地獄の底から湧き上がる何者かの咾がかき消した。

 

 怨魏埜阿おんぎやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……

 

 その瞬間に世界が歪んだ。

 

 板間が捻じ曲がり、天井が撓む。

 

 バキバキと家鳴が聞こえ、酷い耳鳴りが脳を揺さぶる。

 

 頭を両手で抱えるようにしてうずくまる卜部の背中を最後に、かなめの視界は闇に包まれた。

 

 ばん……

 

 ばばん……

 

 ばん……

 

 ばばん……

 

 

 

 

 

 ばん……

 

 

 奇妙な、そしてどこか乱暴な音が聞こえた。

 

 クスクスと嗤う声と、何事かを囁きあう声が遠ざかりると、「んあ……」と小さく赤ん坊の声がした。

 

「先生……‼」

 

 がばりと起き上がり周囲を確認するも、そこには誰もいない。

 

 床に置かれた蝋燭も姿を消し、来たときと同じように仄白い蛍光灯が灯った嫌に薄ら明るい板間の廊下が二手に伸びているだけ。

 

 ばん……

 

 ばばん……

 

 奥の襖の中から音がした。

 

 どくん……と心臓が息を呑んだ。

 

 悪い予感に身体が震えそうになる。

 

 音の元凶を確かめるのが恐ろしい。

 

 でも……だけど……


 

 そこにいる

 


 息遣いから、気配から、かなめにはそれがわかってしまう。

 

 気を抜けばガタガタと震え出す奥歯を、かなめは声にして吐き出した。

 

「せんせい……?」

 

 案の定声は震えてか細かった。

 

 手をかけて引いた襖は、上手く滑らずに引っ掛かりカタカタと音を立てる。

 

 ばん……

 

 ばばん……

 

「先生……‼」

 

 乱暴に脱ぎ捨てられたスーツとシャツが散乱する座敷の奥。

 

 畳の上で硬直する下着には目もくれず、かなめは卜部に駆け寄った。

 

 裸体で腕を振り回し、畳を踏み鳴らす卜部は満面の笑みを浮かべながら泣いている。

 

「ぎゃははははっははははは……‼」


「先生……‼ 先生……‼ しっかりしてください……‼ 何で裸なんですかっ‼」


 両肩を掴んで揺さぶるかなめを無視して、卜部は右手を伸ばし朗々と叫んだ。 


「黄泉平坂ぁぁぁぁ……振り放け見みればぁぁぁぁ……春日なるぅぅ……」


「やめてください……‼ 帰りましょう……‼ 早く外に出ないと……‼」


 かなめは泣きながら服をかき集めると何とか卜部にそれを着せようとした。

 

「いざ産み落とされん……‼ 伊邪那美のぉぉぉ……‼ 怨柱なるぅぅぅぅうう……





 

 

 ビクビクとのたうつように身体を震わせ涎を垂らして叫ぶ卜部に、かなめはなんとかトランクスを履かせると、肩に腕を回して無理矢理に襖の外へ運び出した。

 

 意思とは無関係にポロポロと涙が溢れたが、かなめは強い光を眼に宿し、口を結んで廊下を進む。

 

「もうお帰りなんです……? それにその格好は……?」

 

 玄関にたどり着いた時、背後の闇から櫻木舞子の声がした。


 かなめにも分かる。小馬鹿にしたような悪意を孕んだ嘲笑の言葉。


 ヒヒヒ……ヒヒヒ……とせせら笑う卜部を担いで、かなめは声の方に振り向くと目を見開いて言った。

 

「ええ……‼ 一度帰る段取りでしたから……‼ それに何を祓うべきなのかよく分かりました……」


「それはそれは……」と櫻木舞子は口元を覆う。


 そんな女をまっすぐに睨みつけてかなめは宣告した。


「先生は……祓うべきものは必ず祓います。邪悪は祓われなければならないですから……!」

 

「よろしくお願いしますね?」

 

 不敵に微笑む女を残し、かなめは卜部を連れて玄関をくぐり抜けた。

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