ケース8 じんめんそう㉙

 

「和也さん……⁉」


 舞子は悲鳴を上げた。


 しかし和也は微動だにせず、畳に額を擦り付けたままぶつぶつと何かを呟いている。


 いつの間にか肩が震えていた。それでも舞子は気持ちを奮い立たせて夫のもとへ向かおうと一歩踏み出す。


「舞子さん」


 唐突に名を呼ばれて舞子の身体が固まった。


 振り向くとそこには和也の兄がニコニコと微笑みながら立っている。


 でっぷりと垂れ下がった下腹が、和也とは似ても似つかない。


 しかしその目は紛れもなく櫻木の一族のそれだった。


 ねっとりと纏わりつくような、捕食者の目。


正則義兄様まさのりおにいさま……」


 舞子が呟くように言うと、男は恵比寿顔を崩さずにと頷いて言う。


「うん。和也は心配いらない。これは家の仕来りのようなものでね? うん。ショッキングな光景だが何の問題もない。まあ君のような血筋の外の者には理解できんだろうが」

 

「でも……」


「黙れぇええええええええ……!!」 


 舞子が口を開きかけた瞬間、正則の怒号が響いた。

 

 目は見開かれ、額には玉のような脂汗が吹き上がっている。

 

「余所者の貴様が口を挟むことじゃないと言ってるんだ!! うぅん⁉ それとも何か? 余計な事を言って和也を更に追い込みたいのか? うん?」

 

 目の前に立って瞳を覗き込むように首を傾げる男の圧に、舞子は思わず顔を背けて首を振った。

 

 視界の端には相変わらずの夫の姿が映り込んでいる。

 

 その惨めな姿に思わず涙が溢れた。

 

 しかし四方八方から射るように浴びせられる憎悪の視線に、舞子は抗えない。

 

 それを察知したように、一族の人間たちは示し合わせたように出口に向かって手のひらを差し出した。

 

「さあ。わかっただろう? 話が終わるまで外で待っているんだ。さあ」

 

 さあ

    さあ

 

 さあ   さあ

    さあ 


 さあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさあさ

 

 

「さあ⁉」

 

 舞子は逃げるように開いた襖に向かって走った。

 

 すると背後で拍手が巻き起こる。

 

 もう一度だけ夫を見ようと振り返ろうとした瞬間、ぴしゃりと音がして襖が閉ざされた。

 

「あ゙あ゙ぁ……」

 

 襖に縋るようにして、舞子はその場に崩れ落ちた。

 

 中からは聞いたことのない不気味な合唱が聞こえてくる。

 

 それに伴って、誰かが地面をどん……どん……と打ち鳴らす。

 

 その時舞子の直感が告げた。

 

 地面を打ち鳴らしているのは夫の和也だと。

 



 羯諦 羯諦  波羅羯諦 波羅僧羯諦 叢蘇訶

 

 黄泉平坂 波羅羯諦 七転八倒 波羅羯諦

 

 転げ落ちたら 草葉の陰に 咲いた咲いた 彼岸の華が

 

 裂いた裂いた 悲願の華が 朱 白 黄色は黄泉の色

 

 羯諦 羯諦  波羅羯諦 波羅僧羯諦 叢蘇訶

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