ケース8 じんめんそう㉘


 

 六年前、六月某日―――


「台風三号は太平洋沿岸を北上し関東地方に直撃する見込みです。未明から夕方にかけて激しい雷雨を伴う予想です」


 くりやの隅に置かれたテレビが告げる予報に耳を傾けながら、舞子はおさんどん達と共に夕餉の支度に追われている。


 今朝方夫の和也から「本家の人間が来る。食事の準備を頼む」と告げられ、朝からその支度に大童おおわらわだった。

 

 本家の人間……

 

 碌でもない事にならなけば良いが……

 

 不吉な予感が脳裏をかすめたが、もてなしに不備があっては夫の顔に泥を塗ることになる。

 

 たださえ本家と折り合いが悪く、微妙な立場にいる和也を、舞子はこれ以上追い詰めさせるわけにはいかなかった。

 

 不安を心の奥底に押しやり、舞子は里芋の六方剥きに集中する。

 

 ガヤガヤと騒がしい気配を伴って、本家の人間たちが屋敷に入っくるのが分かった。


 苛々した口調の男たちの喧騒と、意地悪な響きを含んだ女たちの囁き声が聞こえると、舞子は無意識に聞き耳を立てるのを抑えられない。


 気持ちが落ち着かず、ぬめる里芋を剥く手に不要な力が入る。


 襖と廊下を隔てた向こうでは和也が孤軍奮闘、本家の人間を相手取って何かを訴えているらしい。

 

 ザワメキはドヨメキに変わり、口調はどんどん険のあるものに変わっていく。


 和也さん……

 無茶をなさらないで……


 しかし舞子の祈りも虚しく、やがて話し合いに怒声が混じり始めた。


 落ち着かず何度も広間の方を振り向いていると、舞子の指先に突如激しい痛みが走った。


「痛っ……」


 見ると里芋の汁で滑った包丁が、深々と親指に食い込んでいる。

 

 白い里芋の表面がみるみるうちに赤く染まった。

 

 慌てて指を口に含むと、おさんどんの一人がそれに気が付き駆け寄ってくる。

 

「奥様……!? 指をお切りになられたんですか?」

 

「大した事はございません……食事の支度を……」

 

 唇から溢れた血を見ておさんどんは顔を青くして言った。

 

「いけません……まずは傷の手当を! さあこちらへ……」

 

 後ろ髪を引かれるような思いだったが、作業に遅れが出ては和也さんに迷惑がかかる……そう思い、舞子はおさんどんに支えられるような形で厨をあとにした。

 

「随分深く切られておいでです……病院で診ていただいたほうが……」

 

 なんとか出血をとめようと包帯を巻きながらおさんどんは不安そうに提案した。

 

「いいえ……和也さんを独りにするわけには参りません……」

 

「ですが……」


 そこまで言って見上げると、そこには鎮痛な面持ちの舞子が下唇を噛んで立っていた。


 続きの言葉を見失ったおさんどんは、静かに、しかしきっぱりとした口調で言う。


「わかりました。しかしこの手では料理はもうお出来になりません。支度したくは私どもに任せて、奥様は旦那様のところに」

 

 舞子は血の滲む包帯を睨んでからおさんどんの方に向き直ると、コクリと頷き広間の方へと早足に向かった。

 

 私が行ったところでどうなるものでもない……

 それでもあなたお一人を針のむしろに座らせるわけには参りません……

 

 襖の前に座ると、舞子は深く息を吸った。

 

 先程までの喧騒が嘘のように、襖の向こうは静まり返っている。

 

 もしや、話が上手くまとまったのかもしれない……

 

 淡い期待を抱きながら舞子は口を開いた。

 

「失礼いたします……」

 

 そう言って両手で襖を開くと同時に深々と頭を下げて三つ指をつく。

 

 相変わらず誰一人として声を発しようとしない広間の様子に違和感を覚えつつも、舞子はスッ……と頭を上げた。


 

 本家の人間全員が、じっとりとした眼でこちらを見据えている。


 しかし舞子を心底震えさせたのは、本家の視線などではなかった。


 広間の奥、上座の辺りに、裸体の男が這いつくばるようにして伏せっている。

 

 いや。伏せっているのではない。

 

 土下座しているのだ。

 

 畳に額を擦り付けて泣きながら震える、一糸まとわぬ夫の姿がそこにはあった。

 

 

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