ケース8 じんめんそう㉔
櫻木舞子はおもむろに引き戸に両手をかけた。
丁寧な所作で扉を開くと、首を斜めに傾けてこちらを見て言う。
「どうぞ中へ……?」
卜部は何も言わずに開かれた薄闇の方へと歩き出した。
先程の老婆のこともあったので、かなめもすぐに後に従う。
櫻木舞子の前を横切るとき、かなめは卜部の影に隠れるようにして足早に進んだ。
しかし女はそんなかなめの心を見透かすように言う。
「義母さんみたいに捕まえたりはしませんよ?」
細くしなやかな女の指が心臓に絡まったような心地がして、思わず悲鳴をあげそうになる。
しかしかなめはそれをなんとか堪えると、小さく頭を下げて屋敷の中へと踏み込んだ。
なんだろう……?
奇妙な違和感だった。
物の配置が変わったわけでもないのに、以前訪れた時とは屋敷の醸す気配が異なっている。
日が経っていないこともあり、下駄箱の上に置かれた生け花も同じ。
光沢のある一枚板で作られた衝立は、見るからに立派なものだったが、何処か歪で不気味な形をしている。
出自のわからない翁と媼の面が天井付近からこちらを見下ろしていることに気が付き、かなめはぎゅ……とバッグの紐を握りしめた。
怪しいものを挙げればきりがないように思える。
違和感の正体を見極めようと目を細めてみるも、結局かなめにはそれを捉えることが出来なかった。
卜部はそんなかなめと裏腹に、何処を見るともなく眉間に皺を寄せたまま固まっていた。
櫻木舞子はスリッパを並べると「こちらへ」と一言だけ声を発し、昼間でも薄暗い廊下の奥へスルスルと歩いていく。
「おい……さっきの話……」
「はい……食べません。飲みません……」
卜部はよしと頷いて薄暗い廊下を進んだ。
一歩足を踏み出す度に、ぐぅぐっ……と呻き声に似た音が響いた。
不吉に軋む廊下を櫻木舞子は音もなくスルスルと進んでいく。
かなめはその姿を見て、ひょっとしてあの
いつかのこと、本当に幽霊が依頼に来たことがあった。
ずぶ濡れの黒い男。
不思議なことに顔は見えない。
事務所の入口に立ち竦むその幽霊に向かって卜部は言ったのだ。
「他所へ行け。ここはお前の来るべき場所じゃない……」
青褪めて見ていると、男はどこか残念そうに項垂れて消えてしまった。
それからも男の霊はやってきては、事務所の入口を数日に渡ってびしょ濡れにした。
とうとう痺れを切らした卜部はある日男の霊に向かって怒鳴り声を上げて言った。
「いい加減にしろ……!? この場で消されたいのか!?」
それを聞いた男は、ひゅぅううぅう……と長い悲鳴をあげ特大の水溜まりを作って消え失せると、それ以来やってくることはなかった。
その時かなめは言った。
「なんだか可哀想な霊でしたね……助けてあげても良かったんじゃないですか……?」
しかし卜部は真剣な目でかなめを見据えてこう返したのだった。
「俺が死者の願いを叶えるというのは、この世に存在しなかったはずの事象を生み出すということにほかならん……忘れるな。邪祓師の仕事は、邪を祓うことだ」
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