ケース8 じんめんそう⑱
「いいって言うまで絶対立ち入り禁止ですから……!! 返事は?」
「いいからさっさと準備しろ……」
そんなやり取りがあってからかれこれ十分ほどになる。
部屋の中からは掃除機の音やらドタバタとかなめの走り回る音が響いていた。
卜部は腕組みした肘を、もう片方の指で苛々と叩きながら入室の許可が出るのを待っている。
そうこうしているとエレベーターの方からリン……と音がした。
卜部はちょうどいい暇潰しが出来たと言わんばかりに表情を変え、到着したエレベーターの方へと向かう。
誰もいないエレベーター。
呼ぶものも、乗ってきた者もいない無人の箱が、一体どのようにしてここにやって来たのか?
卜部にとってはわかりきったことだった。
卜部にというよりも、視える者にとってはわかりきったことと言ったほうが正しいかもしれない。
躊躇いなく近づいてくる卜部を前にして怖気づいたのか、エレベーターは独りでにスルスルとドアを閉じ始める。
しかし暇を持て余した卜部は、せっかくやって来た獲物を逃がすつもりなど毛頭なかった。
閉じかけたドアに革靴をねじ込み低い声で言う。
「おい……せっかく来たんだ。ゆっくりしていけばいいだろう?」
その声に合わせてエレベーター内の照明が明滅した。
卜部は狭い箱の中に身体を滑り込ませると、拳で非常停止ボタンを叩く。
その顔には残酷な笑みが浮かんでいた。
「さて……うちの助手にご執心のようだがどうしたものか……」
卜部は顎をさすりながら鏡に目をやった。
そこには意地の悪い笑みを浮かべた卜部ともう一人、冴えない背広の男が映っている。
顔から上が暗い靄に隠れて見えない男。
しかしその靄からはどす黒い血が滴り、足元には血溜まりが出来ていた。
「女性専用のマンションに男の霊とはな……おおかた言い寄っていた女に振られてどこぞで飛び降りでもしたんだろう……違うか?」
男の顔を覆う靄がぞわり……と揺れた。
卜部はそれだけ確認すると、再び口を開く。
「あの馬鹿を怖がらせるためにこのまま置いておくのも一興だが……」
「執着しているだけに障りが無いとも言い切れん……さてどうするべきか……やはり祓うか……」
まるで男の恐怖が伝染したかのように、宙吊りのエレベーターがガタガタと震え始めた。
「よし……決めた」
卜部がそう言ったの同時に、背後でかなめが扉を開けて顔を出した。
「先せーい!! 準備オッケーです!!」
「ふん……!!」
卜部の気合の声がした。
かなめが何事かとそちらを見ると、卜部が懇親の右ストレートをエレベーターの鏡に向かって振り下ろすところだった。
「ちょっとぉおおおお!? 何してるんですかぁああああ!?」
悲鳴にも似た叫び声とほとんど同時に、鏡が蜘蛛の巣状にひび割れ、ガシャン……と音を立てて床に落ちる。
卜部は床に手を付き何かを確かめる素振りを見せた後、こちらを振り返ってゆっくりと歩いてきた。
青褪めたかなめとは裏腹に、卜部はどこか清々しく満足げな表情を浮かべている。
「これは一体……?」
消え入りそうな声で言うかなめの肩に手を置き卜部は言う。
「ああ。お前が怖がってた怪異だが、俺が祓っておいてやった。ありがたく思え」
それだけ言うと卜部は何食わぬ顔でかなめの部屋に入っていく。
かなめはどうするか迷ったが、何も見なかったことにして静かに扉を閉じるのだった。
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