ケース8 じんめんそう⑪


「先生……!!」

 

 かなめは事務所のドアを勢いよく開けると同時に大声で叫んで言った。

 

 しかし明りのついたままの事務所に人の気配は無く、がらんとした孤独がプツプツとレコードのような耳鳴りを誘う。

 

 かなめは不安げに事務所内を見渡してから、観葉植物の裏手に向かった。

 

 ひっそりと佇む扉のドアノブには、空室を示す青いマークが灯っている。

 

 ゴクリと唾を呑み、かなめは縋るような気持ちでそっとドアノブに手をかけた。

 

 ゆっくりと扉を開くと、じろりとこちらを睨む双眸が目に入り、ひっ……と息を呑む。


「何してるんですか……? 先生……」


 ズボンを穿いたまま便座に座り、こちらを睨みつける卜部にかなめは恐る恐る尋ねた。


「こっちの台詞だ……だいたいお前には関係ない……」

 

「失礼しました……」

 

 そう呟いて、そのままの姿勢でかなめが扉を閉めるとザーーと水の流れる音がした。

 

 一体何を流したの……?

 

 かなめがそう考えたのも束の間、見るからに不機嫌そうな卜部が扉を開けて姿を現す。

 

 顎でソファを指すなり、卜部は洗面台に向かい手を洗った。

 

 かなめがソファに座ると、すぐに卜部がやって来て向かいのソファにどす……と腰掛ける。

 

「それで……何の用だ?」

 

 煙草に火を点けながらイライラと尋ねる卜部に、かなめは今日あった出来事を順を追って説明した。

 

 あれほど不機嫌そうだった卜部も、かなめが話し始めると黙って耳を傾けている。



「櫻木舞子の呪いじゃないかと思うんです……残穢は取れても呪いは残るってことありますか……?」

 

 かなめが最後にそう言って話を締めくくると、卜部は目を細めてかなめの背後を凝視した。

 

「いや……違うな。呪いじゃない……」

 

「え……?」

 

 思わずかなめはゾクリとして背後を確認する。

 

 しかしそこには何も無かった。

 

 蛍光灯の明りに照らされた観葉植物が、黙って佇んでいる。それだけ。

 

 

「なまなり。生霊とも言う」

 

 そう言って卜部は立ち上がり自分の机の後ろにある本棚から古い資料を数冊掴んで持ってきた。

 

「起源は古い。それこそ源氏物語や今昔物語にも登場する。本来は深い怨みや嫉妬で誰かに憑いたり、今際の際に縁故知人を訪ねて霊体だけが彷徨う現象を指すが……要は執念の産物だ」

 

 かなめは一応資料を手に取って眺めたが、おどろおどろしいだけで書かれている内容はさっぱり分からない。

 

 「はぁ……」と気の抜けた相槌を打つだけで、かなめはそれ以上何も言えなかった。

 

 

「呪いなら呪いに応じた対策をとるが、生霊は生霊返しや生霊封じを行う……」

 

 卜部が再びソファに座ったので、かなめは前のめりになって卜部に言った。

 

「じゃあ! それをすればもう大丈夫なんですね!?」

 

 かなめの表情が明るくなるのと裏腹に、卜部は苦虫を噛み潰したような顔で口を開く。

 

「ああ……これが普通の相手ならな……」

 

「え……?」

 

「櫻木舞子……そいつの旦那が昔訪ねてきたことがある……金はいくらでも出すと言ってな」


 さらりと卜部の口をついた驚愕の言葉に、かなめは思わず固まった。


 忌々しそうに煙草を吹かす卜部に、かなめは恐る恐る聞いてみる。


「それで……どうなったんですか?」


 卜部は煙草を灰皿で揉み消すと、妖しい笑みを口元に浮かべ、わざと声をひそめて言うのだった。



「いくら積まれても無理だと言って追い返した」

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