ケース8 じんめんそう⑩
地下鉄のホームに着くとかなめの心も少し落ち着きを取り戻していた。
終電近くとはいえ街は明るく、人の営みは色濃い。
行き交う人の話し声に耳を傾けながら、かなめは事務所方面に向かう電車の到着を待っていた。
上司の愚痴、酔っぱらいの笑い声、女性社員同士の他愛もない会話……
断片的で不明瞭な会話だったが、今は心強い。
色褪せたプラスチック製のベンチに腰掛け項垂れながら、独りではない安心感にかなめが大きくため息を吐いた時、異変が起こった。
人々の会話に紛れて小さな声で、しかし確かな存在感を持って、聞こえる。
あの声が聞こえる。
もし……?
身体が何かに締め付けられるような感覚がした。
動かぬ身体と裏腹に、視線は手繰り寄せられるように上へ上へと引っ張られていく。
そして視線の先、向かいのホームの人混みの中に、喪服の女が立っていた。
白い顔に真っ赤な口紅が弧を描く。
真っ直ぐこちらを見て笑う女に、全身の毛が逆立った。
異様な光景だ。
誰も女の前を横切ろうとはしない。
電車の到着を待つ人の群れの中、その場所だけが忌土地のようにポッカリと穴を開けていた。
やがて女は真顔に戻ると、ゆっくり、大きく口を開く。
ぐちゅり……
ねちゃ……
ぐちょ……
聞こえるはずのないそんな音が、かなめの鼓膜に張り付いて糸を引く。
その時、開いた女の口の中に何かが動くのをかなめは見た。
目を閉じたい……
そんな思いとは裏腹に、かなめの両眼は大きく見開かれ、そこから目が離せない。
やがてかなめはつぶさに見ることとなる。
女の口から伸び出てくる皺枯れた触腕の数々を……
ミシミシと鈍い音を軋ませながら、古木の樹皮のような物に覆われた何かが次々と女の口から溢れ出てくる。
とうとうそれは女の足元にまで垂れ下がり、次第にホームの際へと伸びていった。
こっちに来るつもりだ……
身動き出来ぬまま、ズルズルと伸びてくるそれにかなめの目が釘付けになっていると、突然まばゆい光が視界の端に差し込んできた。
轟音と地下の生ぬるい風を伴い、急行電車がホームを通過する。
急に身体の自由が戻った。
慌てて向かいのホームを見ると、先程まで女がいた場所には電車を待つ人の列が出来ており、何事もなかったかのように人の営みは回っている。
助かった……
肩の力ががくりと抜けると同時に耳元で声がした。
くれぐれも、先生によろしくね……?
びくりと振り返ると、そこにはタイル張りの壁があるばかりで、誰もいない。
同時にかなめは理解した。
あの人は……
先生を連れて行くまで、わたしから離れないつもりだ……
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