ケース8 じんめんそう⑧
時刻は十時を過ぎた頃、かなめは鼻歌を口ずさみながら一人夜道を歩いていた。
土筆誰の子……
今日あった嫌な出来事はすっかり忘れ去られ、自宅のマンションへ向かう足取りは軽い。
事務所にある簡易のシンクの隣、小さな食器棚に二つ並んだ湯呑みを思い出しては、くすぐったいような嬉しさがこみ上げてくる。
やっぱりホーリーさんの占いはすごいな……
そんなことを考えていると薄ピンクのマンションが見えてきた。
エントランスのロックを解除し正面にあるエレベーターに乗り込む。
ちょうど一階に止まっていたエレベーターに乗り込むと、エントランスのオートロックが閉まる音がした。
何も無い。
不吉な気配など何も無い、いつものエレベーター。
それなのに、どういうわけか毎度エレベーターに乗ると背後の鏡が気にかかる。
職業柄、怖い経験が多いせいで過敏になっているのだと思う。
エレベーターのドアにはワイヤーの入ったガラスが嵌め込まれ、移動に合わせて向こう側の様子が覗いた。
当然、階から階へと移る間は、暗い壁に阻まれてエレベーター内部が映り込む。
かなめはいつも通り、天井の右隅を眺め映り込みを見ないようにしていた。
何も無い……
けれど……
見ないに越したことはない……
かなめの頭の中では、何者かのひび割れた手が後頭部に迫ってくる。
それと同時に、リン……と音がして扉が開き、かなめはその手から逃げるようにスルリと扉の隙間から外へ出た。
数歩離れた位置から振り向いて、かなめはエレベーターの中を確認する。
バッグをぎゅっと握り締めて睨んだ先には、当然誰もいなかった。
ふぅ……
安堵のため息を漏らしてかなめは思う。
今度先生に見てもらおう……
鍵を開け、靴を脱ぐとかなめは洗面所に向かい手を洗うついでにメイクも落としてしまう。
手に巻いていた群青色のシュシュで髪を束ね、顔を洗うと呼吸が楽になった気がした。
そのままかなめは湯船を洗いお湯を張る。
お風呂が沸くまでの間、かなめはホーリーにお礼のメールを打つことにした。
『今日はご馳走様でした。お友達は大丈夫でしたか? それと聞いて下さい! 今日偶然、先生とお揃いの湯呑みを買いました! ホーリーさんの占いはすごいです!』
送信ボタンを押してかなめは机に携帯を置くと、ラジオのFM放送をかけた。
DJの陽気なトークに次いでカーディガンズのカーニバルが流れてくる。
カフェオレだな……
そう思い立ったかなめは電気ケトルのスイッチを入れ、冷蔵庫のミルクを注いだカップを電子レンジで温めた。
ミルクの入ったカップに一人分のドリップを乗せてお湯を注ぐと部屋中にコーヒーのいい香りが広がっていく。
ソファに座りフーフーと息を吹きかけながらちびちびとカフェオレを飲んでいると、窓の外でどさ……と音がした。
かなめはカップを持ったまま、カーテンに近寄り外を覗く。
そこには夜の闇が広がるばかりで何もなかった。
気のせい?
ちょうどその時、ローテーブルの上でカタカタと携帯が震えたのでかなめは携帯に手を伸ばした。
どさ……
再び窓の外で音がした。
今度は素早く振り返った。
カーテンの方を見たまま固まるかなめをよそに、携帯はカタカタと振動を続けている。
メールじゃない……
チラリと携帯に目をやると、小さな液晶に着信の文字が光っていた。
いつの間にかかなめの背には、じっとりと汗が滲んでいる。
やがて振動が止まると、携帯の機械音声が部屋に木霊した。
「留守番電話サービスです。ピーという音の後にメッセージをどうぞ。Piーーー」
「もぉしもぉしぃいいい? おぢるのわもおおおおををおヲヲおいイイあ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」
まるで音飛びしたレコードように電話の主は、ああああああああと不気味な声を繰り返した。
それを聞いたかなめの全身に鳥肌が立ち、ガクガクと膝が震える。
その時再びカーテンの向こうで、どさっ……と何かが落ちる音がした。
「ひっ……!?」
その拍子にかなめの手からカップが滑り落ち、フローリングにぶち当たったカップはカフェオレを撒き散らして粉々に砕け散った。
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