ケース8 じんめんそう⑤
路地裏の薄汚れた雑居ビルの一室に不気味な鼻歌が響いていた。
カセットコンロがコーーと音を立て、ジュワジュワと何かが煮える音がする。
そんなことは露知らず、かなめは息を切らせて赤いレンガ造りの階段をカンカンと踏み鳴らす。
五階まで駆け上がると、すぐ正面に明朝体の黒字で「心霊解決センター」と書かれたプラスチックプレートが目に入る。
かなめは肩で息をしながらそのアルミ扉を押し開け、叫んだ。
「先生……!!」
すると部屋には何やらいい匂いが充満していた。
醤油とザラメの煮える甘辛く香ばしい匂い。
「
低い歌声がピタリと止むと同時に、卜部は目を見開いた。
かなめもまた見てはいけないものでも見たかのように息を呑む。
「何してるんですか……?」
「一体何しに来た……?」
二人は同時に口を開き、そのまま互いの顔を見つめると、再び沈黙が事務所に訪れる。
かなめが説明しようと口を開きかけたその時、卜部の表情が一変した。
卜部は険しい顔つきでコンロの火を止めると、かなめを睨んで言う。
「かめ……お前一体誰と会ってた……?」
「え……?」
卜部はかなめの手を指差して吐き捨てるように呟いた。
「酷い残穢だ……お前、呪いをもらったな……? すぐに手を洗え!!」
「あ、はい……!!」
かなめは慌てて観葉植物の裏手にある洗面所へ向かうと石鹸で手を洗う。
必死に手を擦っていると、いつの間にか隣に卜部が立っていた。
「ちっ……また厄介事を持ち込みよってからに……手を出せ!!」
かなめが恐る恐る手を差し出すと、卜部は一升瓶に口を付けてお神酒を含み、それを霧のようにしてかなめの手に吹きかけた。
「ぎゃあああ!? 何するんですか!?」
思わず叫ぶかなめに卜部が怒鳴り返す。
「バカタレ!! 石鹸なんかで呪いが取れるわけないだろ!? それでもう一度洗え!!」
かなめはうぅ……と声を漏らし涙目になって手を洗う。
それと同時に血の気が引いた。
黒い……
見るとそこにはかなめの手から滴り落ちたどす黒い水が、真っ白な洗面台のシンクで渦を巻いている。
墨汁のような黒い液体はまるでかなめの両手から湧き出るように止めどなく流れ続けていた。
「先生……これは一体……?」
本当に泣きそうになりながらかなめは卜部を見上げた。
「言っただろ。酷い残穢だ……相当年季が入ってる……一体どんな業を背負えばこんなことになるのか……」
「……取れるでしょうか……?」
「……取れるまでやる……もう一度手を出せ……!!」
結局かなめの手から黒い液体が出なくなる頃には一升瓶が空になっていた。
卜部は口を拭うと空になった瓶を脇に置いて言う。
「とりあえずこれで大丈夫だろう……」
「すみませんでした……」
肩を落として謝るかなめに目を細めると、卜部はやれやれとため息を吐いてから口を開いた。
「どうせ
卜部はそう言ってカセットコンロの上に置かれた行平鍋の方に向かった。
かなめが後ろから鍋を覗くとそこには何かの佃煮らしきものが入っており、砂糖醤油のいい匂いがした。
「なんですか? これ?」
「土筆だ。邪気祓いの効能がある」
「ツクシって、あのツクシですか!? 土手とかに生えてる!?」
かなめが驚きの声を上げると卜部は不思議そうな顔をして答えた。
「当たり前だ。これも土手から採ってきた」
「そんなの食べられるんですか……?」
怪訝そうに佃煮を見つめるかなめの方に卜部が振り返って問いかける。
「なんだ? 食べないのか?」
「食べますけど……」
卜部の差し出す割箸を受け取りながらかなめが答える。
恐る恐るかなめがそれを口に運ぶと想像以上に苦い味がした。
「結構苦いですね……」
「ああ。それが冬の間に溜まった身体の毒気を出す。さっきの残穢にも多少は効くだろう……」
かなめは「なるほど」と頷きながらふとあることを思い出し、卜部に声をかけた。
「先生?」
「なんだ?」
「これ……
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