ケース6 田園の一軒家⑮


 泉谷の全身を冷たい冷気が覆っていた。

 

 吐き気を催すほどの悪意が鼻腔や毛穴から身体の中に侵入してくるのがわかる。

 

 

 なんまんだぶ……なんまんだぶ……

 なんまんだぶ……なんまんだぶ……

 

 

 必死で念じながら泉谷は観念して目を開けた。

 

 女は眼の前にすっと立っていた。

 

 真っ黒な髪が顔を覆っているが、その隙間から裂けそうなほど吊り上がった口元が見えた。

 

 

 白い肌。

 

 黒い血管。

 

 真っ赤な唇。

 

 

「おうう……」

 

 意味のない声が泉谷の口から漏れると同時に女は両手で髪をそっと左右に分けた。

 

 そこには異様に大きな二つの目があった。

 

 しかしそこに眼球は無い。

 

 露出した粘膜は赤く充血し脈打つように蠢き、暗い孔の奥からずるりと音がした。

 

 

「うわぁぁあああ……!!」

 

 

 眼孔の奥底の血溜まりから無数の指が伸びてくるのが見えて泉谷は思わず叫び声を上げた。

 

 しかし卜部は何かを待つように祈るばかりで微動だにしない。

 

 

 邪視の目から伸びた無数の長い指は、泉谷を捕らえようと不規則に蠢いていた。

 

 

 

「卜部ぇええええええ!!」

 

 

 泉谷が叫んでも卜部は動かなかった。

 

 ついにおぞましい指の一本が泉谷に触れた。

 

 

「ああああああああああああああああ!!」

 

「ああああああああああああああああ!!」

 

 

 泉谷と邪視は同時に叫び声を上げた。

 

 叫びながら泉谷は自身の胸元に目をやった。

 

 内ポケットに入れた卜部の札が熱を帯びている。

 

 ちらりと卜部に視線をやると、祈り終えた卜部と目があった。

 

 

「行け!!」

 

 卜部の声と同時に泉谷の全身にバチンと叩かれたような衝撃が走った。

 

 その衝撃に弾かれるようにして、泉谷は両目を押さえて苦しむ邪視の脇を四つん這いになってくぐり抜けると、慌てて部屋の外に飛び出した。

 

 

 邪視は両目を覆っていた手をゆっくりと降ろした。

 

 邪視の両目はズブズブに溶けて巨大な一つの孔になっていた。

 

 その孔からは数本の千切れかけた指が無惨にぶら下がっている。

 

 細い繊維が指と眼孔をかろうじて繋いでおり、その糸は神経のようにビクン……ビクン……と脈打って、ぶら下がった指を震わせていた。

 

 

 怒りを露わにして襲いかかってくる邪視に向かって卜部は冷たく言い放った。

 

 

「悪いがしばらくここで大人しくしててくれ……」

 

 

 そう言って卜部はポケットから穴の空いた石を取り出した。

 

 戸の影から様子を伺っていた泉谷にも、邪視の視線がその穴に集中するのがわかった。

 

 邪視は固まったように両手を突き出して卜部の持つ石から離せないでいる。

 

 卜部はそれを掲げたままジリジリと邪視の背後に回り込み、ゆっくりと戸の外まで後退りした。

 

 

「今だ……」

 

 卜部の合図で泉谷は勢いよく戸を閉めた。

 

 その瞬間、気が狂ったように大きな足音が部屋の中から聞こえてきた。

 

 怒り狂った邪視が戸に向かって猛スピードで走ってくる様が鮮明に浮かんで泉谷は思わず尻もちをついた。 

 

 

 卜部は慌てる様子もなく戸にバツ印を描くように帯をかけた。

 

 それは先程まで天に掲げて聖別していた藍色の帯だった。

 

「邪な眼に針と糸を……汚れた唇に燃える炭火を……」

 

 卜部がそう祈った瞬間に帯は藍から燃えるような朱に変わった。

 

 

「あ゛あ゛あぁぁぁあ゛あ゛……!!」

 

 

 部屋の中から耳を覆いたくなるような邪視の叫び声が響いたが、それはすぐに消えて辺りに静けさが戻った。 

 

 

「立てるか? 張さん」

 

 

 そう言って卜部が手を差し出した次の瞬間……

 

 

 

「こんのアホンダラ!! 何が俺が引き付けるだ!! てめぇ奴が俺を狙うと分かってたな!?」

 

 泉谷は封印を終えた卜部の胸ぐらを掴んで思い切り怒鳴った。

 

「先に言ったら引き受けなかっただろ。おかけで上手くいった。礼を言う」

 

 そう言って薄笑いを浮かべる卜部に肩透かしを食らった泉谷は、はぁと大きなため息を吐いて卜部から手を離すのだった。

 

 

「ところでさっきの石は何なんだよ……?」

 

「あれはアダーストーン。厳密にはкуриный богクリニィボォフだ……」

  

「く……ボフ……? なんだって!?」 

 

 

 泉谷が顔を歪めた。

 

 

「ロシア語で鶏の神様という意味だ」

 

 卜部は面倒くさそうに頭を掻きながら答える。

 

「鶏の神様が……なんで邪視を退治するんだよ……?」

 

 

 それを聞いた卜部は妖しい笑みを浮かべてつぶやいた。

 

 

「鳥は目を突くと言うだろう?」

 

 卜部はすっと真顔に戻って踵を返した。

 

「行こう。時間がない……」

 

「お、おう……」

 

 

 前を歩く卜部の背中を観察しながら泉谷は卜部の言葉とその表情を思い出し言い知れぬ悪寒を感じるのだった。

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