8. 十一月のパングラタン(1)
「けーい!」
慶が振り返ると、永井先輩が手招きしていた。カフェテリアは混雑している時間帯だった。慶は、今、週5で入っていた。シフトを入れられるだけ入れて、後は、泥のように眠る。空白の時間に耐えられなかった。空白の時間が生まれると、樹の最後の顔が浮かんできて、自分のしたことの酷さが耐えられない。意識が保てないほどの眠りと、そこまで追い込んで疲れるほどの労働と、気を失うほどに酒を飲むことで、生活が回っていた。がむしゃらに働いていた。
「永井先輩、なんですか」
振り返った時に分かっていた。慶を呼んでいた永井先輩が手を振った時、そこにいる二人組の女性の客の顔に見覚えがあった。常連さんだ。そして、片方が赤面してチラチラ視線を送ってきていることで分かっていた。
あの雰囲気。女性二人で目を見合わせる仕草、片方が励ましている、見ている女性の先輩店員の表情。
「お客さんが、あんたを呼んでくれって」
「あー……はい」
世界はもうすぐ十二月だ。すぐにクリスマス。そして恋人がいないと肌寒いような心も寒いようなイベントに乗り遅れるような、そういう季節だ。
「何か御用でしたか?」
慶は口角を上げて、営業スマイルを向けた。女の子は着飾って、真っ赤になって、誘ってくれる。慶が、SNSのアカウントを気軽に交換しないから、確実に会えるところで狙ってきたんだろう。
女の子は可愛い。でも、心は踊らない。
「けーい」
スタッフルームで賄いのパングラタンを食べていると、永井先輩が声をかけてきた。隣に座る。
「先輩、上がりですか?お疲れ様です」
慶は、ちょっとずれて彼女の場所をしっかり空けてやる。
違う、知ってる。先輩は、わざと密着してきたんだ。それを分かっていて、傷つけないように、相手に分からせるように振る舞う自分に、心が冷える。先生に投げつけた言葉と同じことを、自分がやってることに自己嫌悪で死にたくなる。それ以上考えないように、それ以上、考えたら心が折れる。スマホをスクロールする。パングラタンの味はしない。もうずっとしない。樹に「出ていけ」って言われてから、何も美味しくなかった。
「慶さあ、今日、なんだったの?」
男の先輩は慶を「盛次」と名字で呼ぶ。下の名前で呼ぶのは、この女性の永井先輩だけだった。しょっちゅう電話をかけてくるのも、携帯電話の登録名を「みえこ」という下の名前にさせようとするのも、永井先輩だった。
「今日?」
寄りかかってくる先輩を今度は避けずに、そのままにしておく。もう一度、あからさまに体をずらしたら、きっと彼女を傷つける。
(そんなの、答えられないのに、はっきり言わないことより酷いんじゃないのか?)
−−−XX区では、年末に向けて売り出しが……
つきっぱなしのテレビのニュースの声が混じる。
「ほら!お客さんの女の子たちがさあ」
(先輩、オレのこと好きなんだろうなあ、でも脈が無いって分かってる。でも、こうやって密着してきたりするのは、ずるい)
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