1.再会―――初夏のビール(3)
「あ」
慶がスマホから顔を上げる。さすがに夜の九時ともなると、構内も閑散としていた。夜風に緑の匂いが混じる。
ダボッとしたカーキ色のTシャツに、ゆるい感じのボトムスを身に着けた慶は、ベンチの上に立てていた片膝を下ろして、樹に手を上げた。
―――オレに来いってか。
慶が手を上げて振っているのを二秒ほど見ていた樹は、向きを変えて、さっさと正門に向かった。この時間は正門しか開いていない。
「せんせ!待って!待ってよ!」
目の端で慶が慌てて走ってくる。どうせ、すぐに追いつく。リーチが違うからな。
「先生、待って、って」
いきなり腕が掴まれて、慶の方に引き寄せられる。
「―――っ」
樹は声を上げる間もなく、勢いあまって慶にぶつかる。
「もー冷たいな!」
ぶつかったことは全然気にしてない様子で、慶は樹の腕を離さない。誰とも距離を取ることが日常になっている樹には、慶の距離が近過ぎる。
樹は、慶を肘で押した。慶はわずかに間を置いた後、「ごめん」とパッと手を放した。
「先生、なに食べる?あ、飲み行く?」
慶の能天気な質問に、樹は崩れ落ちそうになった。
正門を出て歩き出す。学生街らしく、大学の周りにある飲食店は軒並み繁盛している。
樹が足早に歩くすぐ後ろを慶がのんびりついてくる。どこまでも鷹揚な奴。イライラしてるオレがアホみたいじゃないか。
「―――オレは、お前と一緒に食事に行くために、バイトが終わる時間を教えたんじゃないぞ」
「えっじゃあどこ行くの?先生ん家?」
どこまで暢気なんだ。本気なのか、冗談なのか。
樹は足を止めた。真後ろを歩いていた慶が、つんのめってぶつかってくる。
「うわっ急に止まらな―――」
慶はギリギリのところで樹にぶつかるのを回避して、横によろめいた。
「あのなあ、オレに構うのはやめろ。目立つお前に図書館でつきまとわれると迷惑なんだ」
樹は間近に立った慶の胸に、指を突き立てて言った。
言ってやった。これで、盛次慶もさすがに分かっただろう。後味はすこし苦いけれど、これからのオレの人生の平穏さのためには仕方ない。
「―――」
慶が去って行かない。樹が人差し指を突きつけた慶の胸は、動かなかった。不思議に思って、樹が上を見上げると、慶が樹を見下ろしていた。街灯の青い光が慶の顔を照らしている。何も言わず、表情が読めない男が自分を見下ろしているのに、ゾクリとして、一歩下がった。どうしてこんなにこいつは距離が近いんだ。
「迷惑なのが分かったら―――」
「先生はオレの恩人だから」
慶の意外な言葉に、樹は固まる。
「迷惑だって言われても、先生に恩返ししたい」
慶がまた腕を掴んでくる。慶の顔は真剣だった。
「オレは覚えてないって言ってるだろ……」
「図書館で構うな、って言うなら声をかけない。他でならいいの?」
慶が真剣に聞いてくる。近い。
「何ならいいの?オレはあの時、先生が庇ってくれたこと忘れてない―――」
慶がどんどん迫ってくる。なんなんだ、こいつの距離感。息がまぶたにかかる。樹は、間近に迫った慶の睫毛の長さに、目を奪われた。
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