1.再会―――初夏のビール(1)

 「先生、春堂先生だよね」

 春堂樹は突然、名前を呼ばれて顔を上げた。それも「先生」付きで呼ばれるなんて、嫌な予感しかしない。

 顔を上げると、大柄な男子学生がカウンターの向こう側に立っていた。長めの明るい色の髪の毛がライオンのタテガミのように広がっている。少し垂れ目。なんでも食べてしまいそうな大きな口。広い肩幅、長い腕、大きな手。可愛さと獰猛さの両方を兼ね備えた顔。それから、かっこよさと自由さと、全部を詰め込んで混ぜ合わせ、バランスよく配置した雰囲気。

 (ああ……)

 樹は、たっぷり三秒、その学生のニコニコした顔を見つめ、頭のてっぺんから腰までを二往復した。図書貸出カウンターの向こうは、腰までしか見えないのだ。

 そして、そのライオン頭君の後ろにくっついている学生にもチラリと視線を走らせた。華やかな女子学生二名、七色フレームのメガネをかけた派手な男子学生一名。

「マスクしてメガネかけてるけど、春堂先生だよね?」

ライオン頭が、興奮の混じった声で言う。

(そうだ、俺はマスクにメガネ、ほぼ素顔が見えないはずなのに、なぜお前は気付く?)

「せんせぇ?誰なん?こんなせんせぇ、いはったっけ?」

 七色メガネの男子学生の方が、ライオン頭の後ろで訊く。関西弁が特徴的だ。関西人はどこにいても堂々と関西弁を話す。実に自由な雰囲気の集団だった。

 「図書館ではお静かに」

 樹は質問を無視して、カウンターに差し出された本と学生証を取り上げる。貸出管理用パソコンの読み取り機械に学生証を読み取らせる。

 「学籍番号221XXX 盛次 慶 MORITSUGU KEI」

 画面に表示が出る。

 俺はこの名前を知っている。

 樹は無表情を装いながら、本のバーコードを読み取った。

 「五月三十一日までです」

 貸出期間を示す紙片を本に挟んで、本をカウンターの向こうへ押しやった。

 「あ……はい」

 ライオン頭は、次の言葉を待っているように、カウンターから動かない。

 樹はその期待に満ちた目と視線を合わせず、彼らの後ろを覗いた。誰もいない。「次の方」と言って、追い出すこともできない。

 視線を戻すと、盛次慶はまだじっと待っていた。

 −−−高校生のとき、こいつはこんなに穏和な雰囲気だったか?


樹は、自分の記憶のなかの彼をたどりながら、目の前の慶と重ね合わせた。

 −−−俺が知ってる盛次慶はこんなんじゃなかったな。

 「ここは図書館ですので、お静かに」

 さっきと同じ言葉を繰り返して、さっさと出ていくように暗に促す。答えないのは答える気が無いということだと、分からせるように冷たく振舞う。

 ライオン頭は、見るからにシュンとしたが、樹は気付いてないふりを貫く。

 こんなことは予想外だった。地元の高校教師を二年で辞めて、東京の大学院に入り直して一ヶ月余りで、いきなり地元を象徴するような奴と出会ってしまうなんて。学内図書館のアルバイトは非常にありがたい仕事だったが、辞めた方がいいかもしれない。

 樹は、横目で盛次一行がセキュリティチェックを通過していくのを見送りながら、今後の自分の行動について検討を始めた。

 

 「せーんせ」

 再び、同じ声に呼びかけられた。

 樹は、図書館出口で、ギョッとして固まった。時計を見る。

 午後五時十五分。

 さっきのカウンターでの邂逅から、三時間は経っている。いつ出ててくるとも分からないものを、ずっと待っていたのか?

 図書館前の大木の下のベンチに、盛次慶はくつろいで座っていた。周りを数人が取り囲んでいる。さっきの関西弁の男子学生、さっきとは違う女子学生が三人。それぞれに雰囲気の違う装いだが、とにかく派手な集団だった。

「せーんせ」

 慶がいじっていたスマホをポケットにしまって、立ち上がる。群がっていた女子たちが、不満そうに慶の腕から手を離す。そして、彼らは全員、樹に注目していた。樹がどういう人物なのか、慶とどういう関係なのか興味津々なのが、顔に書いてあった。

 「春堂先生、なんでこの大学にいるの?」

 慶は嬉しそうにポケットに手を突っ込んで、樹の方に歩み寄ってくる。ニコニコしている。

 樹は、眉間に皺を寄せて、近寄ってくる「暢気」が服を着て歩いているような男を見つめた。

 ―――どうやってこの面倒を避けるべきか。

 それが樹の目下の、最重要の関心事だった。

 「先生、もしかして」

 樹は、盛次慶が近寄ってきて、その大きさが予想以上だったことに驚いた。185㎝以上あると思う。170㎝の自分からしたら見上げるほど大きい。

 −−−こんなに大きかったか?

 樹は湿気で曇った眼鏡を外しそうになったのを、押しとどめた。素顔を見られたくなかった。マスクをしっかり引き上げる。

 樹は、大男を見上げた。ニコニコしながら樹との距離を詰めてくる。犬がジリジリと距離を詰めてくるみたいに、近かった。腕が触れそうに近い。慶の背後の女子たちの不満気な視線が痛かった。男子学生の意外そうな視線も痛い。

 ここはとりあえず適当におさめて、関わり合わないように努めるしか無い。見上げて、一歩後ろに下がりながら、覗き込んでくる大男にいう。

「……お前、明星高校の生徒……いや、卒業生だよな」

「そう!そうです!」

 ライオン頭の顔がパッと明るくなる。更に一歩近づいてきた。その分、樹は後ろへ下がる羽目になる。こいつは、自分が距離感が異常に近いことに自覚が無いのか。手でも握りそうな勢いだ。近い。近過ぎる。

 「覚えていてくれて嬉しい!……です。先生は、どうしてこの大学に?あっ、ここの先生になったとか?あれ?でも、なんで図書館のカウンターにいたんだ?あ、図書館に転職したとか?」

 矢継ぎ早に話すライオン頭は、本当に嬉しそうだった。二年前にギスギスした雰囲気の男子高校生と同じ人間とは、思えなかった。思わず、その明るい雰囲気に頬を緩めそうになる。

「すまんな、お前のことを覚えてるわけじゃないんだ」

 樹は、できるだけ冷たく聞こえるように言う。お前が少なくとも二年前よりずっと幸せそうなのが、嬉しいよ。なんて思ってるなんて、おくびにも出さない。オレは、もうあの土地を引きずってるものとは関わりあいにならないと決めてるんだ。

「え、でも、明星高校の卒業生って」

 驚いた顔でライオン頭が樹を覗き込んでくる。

「……オレの名字を知っていて、先生と呼ぶのは明星高校の生徒だけだからな」

「オレのこと、覚えてない?名前は覚えてなくても、オレ、あの事件の時の」

ライオン頭が必死で思い出させようとすることが、樹には不思議だった。なんでオレにそんなに必死で食い下がるんだ。オレがお前を歓迎していないのは、分かるじゃないか。

「悪いけど」

 樹は、更に近づいて来ようとする大男を、手で制した。

 ごめんな。

 そう言ったら、優しい言い方になる。だから言えない。

「悪いけど、覚えてない。オレはもう高校の教師は辞めたんだ」

 感情を言葉に乗せないように気をつけて話す。

 だから、お前とはオレは何も関係ない。言外にそういう意味を込めたつもりだった。

「えっ、じゃあ、先生はもう明星の先生じゃないんですか」

 ライオン頭は、本当にショックを受けたように見える。

 こいつは、もともとスペックが高かったんだな、と樹は目の前で悲し気な顔をしている男を見て思う。明星学園は、地方の中高一貫男子校で、名の通った進学クラスを持つ学校だ。進学クラスからは東大入学者を排出する。高三の時点でやさぐれていたのに、偏差値74の工学部にストレートで合格できるライオン頭は、元から出来がいいんだろう。私立一貫校、都内の私大へ躊躇なく入学させられる親の経済力、この体格にこの顔、一時期荒れていたが隠しきれない育ちの良さ。

 オレはこういう奴らをいっぱい知っている。たくさん見てきた。オレだって明星学園の卒業生だからだ。でも、オレと彼らの間には明確にラインが引かれている。オレが絶対に越えられないライン。明るい向こう側。オレには絶対に越えられないラインの向こう側にいる、気のいい奴ら。青春を謳歌できる奴ら。

 じわりと闇のようなものが這い上がってくるのを、樹は感じた。そのまま浸食されそうだ。胸に暗いものが押し寄せてくる。

「―――、じゃ、オレ、用事あるから」

 樹は、喉元まで上がってきたドロドロした闇を押さえこんで、踵を返す。できるだけ素っ気なく、二度と彼が構ってこないように。

 ぐんっと後ろから引かれた。驚いて振り返ると、ライオン頭が真剣な顔で樹の腕を掴んでいた。肘の辺りを大きな手が掴んでいる。すごい力だった。真剣な顔と力の強さに、樹は思わず彼を見つめてしまった。

 「先生、待って」

 垂れ目から鷹揚な光が消えて、眉根を寄せている険しい目つきから溢れる切実さが、樹を打った。

(ああ、なんでこいつはこんなに真剣に……)

「先生、あのさ―――」

 次の言葉を探す彼のうえに、五月の新緑の影が落ちかかる。歴史が長い大学の構内には、大木が緑を繁らせている。淡い緑の細い葉が重なり合いながら風に動いて、陽光がちらちらと瞬く。彼の瞳のなかにその光が映ったり消えたりする。きれいだった。青春だった。樹は眩しくて眩しくて、泣きたくなった。

 こいつの世界はこんなにも―――

 「オレはもうお前の先生じゃない」

 樹は慶の手を振り払った。思い切り邪険に。鬱陶しそうに。

 そしてすぐさま背中を向けて、できるだけ足早に離れる。遠くへ。オレはもう、あの土地を思わせるものも、明るいものも、見たくない。何にも期待したくない。

「先生!」

 慶の大声が追いかけてくる。振り向かない。

「またね!」

 絶対に、慶は手を振っている。樹はその情景が目に浮かぶのを止められなかった。

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