【110】

「は……はい」

「ああ、こんにちは。私、隣に住んでいる、澄田と申します」

「あ、ああ、どうも……」

 これまた、妙な気まずさを感じた。もう長いこと、いわゆるお隣さんという関係性だったのに、対面して話すのは初めてのことだったからだ。このマンションでは、居住者間のコミュニケーションを良しとしていない為、外部で親しくならない限りは、まともに関係性を築くことが無い。もっとも、ここに住んでいる以上は隣人の顔もまるで分からないので、関係性を築けというのも無理な話なのだが。

「あっ、安心してください。管理機構側に責任があるトラブルみたいですから、話しても住民評価の減点はされないはずです」

 女性——澄田夫人は、もの言いたげな様子でこちらを見ていた。このまま中に引っ込むのも角が立つので、電磁壁の手前まで戻る。

「すいません。呼び止めてしまって……」

「いえいえ、普段から管理機構のルールに従いっぱなしですからね。私もつい反射的に……」

「そうですよね……。あの、なんだか、変だと思いませんか?私たちが子供の頃は、こんな隔絶した暮らし方をしていなかった。今ではもうすっかり死語ですけど、ご近所付き合いだったり、お裾分けだったり、そういう隣人間のコミュニケーションがあって……」

 見たところ、夫人は三十代後半か四十代前半のようだった。化粧はしていないのだろう。年相応の老いの気配が、目尻や口元に表れている。が、佇まいは聡明そうで、凛とした雰囲気を漂わせていた。

「ええ。確かに、言われて見ると、昔はこんな風ではありませんでしたねえ。政府が管理機構を創設する前は、良くも悪くも個人と個人の関係性が多岐に渡っていたような気がします」

「ですよね。いくら区民の治安維持の為だからって、ここまでカッチリした生活を強いられなくても―――」

 普段からまともに会話をしていなかったせいか、割合に夫人との立ち話は弾んだ。薄緑色の電磁壁越しの、内容はなんてことのない世間話に過ぎなかったが、亡くなった妻と会話をしているような、柔らかい懐かしさが込み上げてきて、私の口は自然と話題を産み出していた。当の夫人も、こういった会話に飢えていたのか、ウィットに富んだ受け答えをして、顔を綻ばせていた。その様子を見るのは、なんだか嬉しかった。

 ——―久しぶりだ。

 私は今、コミュニケーションを取っている。きちんと向き合い、会話を行っている。機械ではなく、AIでもなく、生身の人間と。

 裕太とも、こうしてコミュニケーションができたら―――。

「あの、さっきから気になっていたんですけど、その向こうの……」

 弾む会話の最中、夫人は私の背後に視線を向けた。その先には、先程、右隣の部屋の住人が散乱させた無数の筒状の物体があった。

「ああ、あれは……何かは知りませんが、普段からあの有り様なんでしょう」

「はあ。あんなに散らかしておいて、大丈夫なんでしょうか。転がって電磁壁にぶつかったら、危ない気がするんですけど……」

 ついさっき、正にその光景を目にしたとは言わないでおいた。が、ちょうど話題が切れていたのもあって、

「そういえば、最近テレビでやっている、アインとか言うのを御存じですか」

「え?ええ……」

「向こうの隣の住人、どうやら独身男みたいなんですがね。どうも、そのアインとかいう生活補助型AIホログラムを使っているらしいんですよ」

「アインを?」

「ええ。たまに、ベランダ越しに妙ちきりんな会話が聴こえてきます。まったく、嘆かわしいことですよ。生活補助とはいえ、AIに恋人ごっこを強いているんですから。大の男が、情けない。いくら人間に近い挙動をしていようと、所詮は偽りの存在なんですからね」

「偽りの……」

「気を付けた方が良いですよ。さすがにそちらまで漏れ聞こえてくることはないでしょうが、お子さんの教育によくない。先程、顔を見たので、もし外で会う機会があったら、私が注意のひとつでも――」

「偽りの存在に、家族ごっこをさせるのは、悪いことでしょうか?」

「え?」

 さっきまでと打って変わって、夫人は怒りに満ちた、それでいてとても悲し気な、沈痛な眼差しで私を見つめていた。

 と、その時、ようやく気が付いた。

 夫人が抱えている洗濯物が、女性一人分の衣服しかないことに。

 まさか―――、

「あ、あの、ご家族は――」

 もしかして、と言いかけた瞬間、突如として上から非常時可動式間仕切り壁がガラガラ、ガシャンッ!と勢いよく降りてきて、視界を遮った。


「ピーッ、管理機構からのお知らせです。ただいま、セキュリティシステムを復旧致しました。御迷惑をお掛けして、大変申し訳ございませんでした。尚、今回のトラブルに関する概要説明と事後対応については、後日、各室のmimamoへと電子メールにて送付いたします。ご確認のほど、よろしくお願いいたします。管理機構からの……」


 mimamoがシステム復旧のアナウンスをする中、非常時可動式間仕切り壁の向こうで、夫人の足音と、窓が閉められる音がした。

 私はしばらくの間、その場から動けず、非常時可動式間仕切り壁の頑強そうな、無機質でざらついた表面を、ずっと見つめていた。

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