【1001】
「……裕太、ご飯だよ」
次の日の夜、私は恐る恐る、部屋の扉に向かって声を掛けた。
耳を澄ますが、物音はしない。やはり、昨日のことがあったので、出てこないだろうか。
——―カチャ、キイィ……
扉が開いたので、静々と台所へ戻った。裕太は基本的に夜しか食事を摂らないので、腹が減っているのだろう。部屋に置いてある酒やつまみ菓子の類では、あの巨体に備わっている胃袋を満足させられないに違いない。
いつものように、と意識しながら、食事を食卓に運んだ。いつもと同じ、白米に、味噌汁に、焼き魚。もちろん、二人分を。例え、手を付けられないと分かっていても。
そうしている内に、どたどたと裕太が現れた。皿を並べている私の方を見向きもせず、台所へと向かい、いつものようにカップ麺にお湯を入れて戻ってくる。
いつものように、いつものように――だが。
手をかざすと、リビングのテレビを点けた。普段は食事の最中にテレビを見ることは無いが、今日に限っては点けておいた方が良い。裕太の注意力を逸らす為に。
流れてくるニュース番組の音声に、裕太は顔をしかめたが、それだけだった。不快だ、という意思表明を暗にするだけで、消そうとも、消せとも言わない。じっと、割り箸で蓋をしたカップ麺を見つめるだけ。
私も食卓に着こう――として、台所に戻った。ちょっと調味料でも取って来よう、といった風を装って。
台所の中から、ちらりと裕太の方を窺うと、案の定、スマートリングの空中ディスプレイを一心不乱に眺めていた。テレビで注意力を逸らさずとも、よかったかもしれない。
気付かれないように、焼き魚の下処理をしたまな板の上の包丁を手に取る。逆手に握り、刃を腕の影に隠すようにして、食卓へと戻る。
……もう、こうするしかない。
私も、もうすぐ七十代という老境に到達する。いつまで生きていられるか分からない。退職金と、微々たる金額の年金による貯蓄を切り崩しながら暮らしている今の暮らしが、いつまで続けられるかも分からない。
もし、私が死んだら―――。
裕太の未来は、絶対に良い方に転ばないだろう。私の人生の終わりは、裕太の人生の終わりなのだ。
それだけなら、まだいい。一人で野垂れ死ぬだけならば。
だが、もしかしたら、ニュースでよく見るような、凄惨な事件のように、他人を傷つけ、挙句の果てに、命を奪うようなことが起きてしまったら。
自分のみならず、他の誰かの人生まで滅茶苦茶にしてしまったら。
そんなこと、考えたくはない。父親として。
だが、その可能性がゼロかと問われたら……胸を張ってゼロだと言い切れる自信が無い。
だったら、せめて父親として、責任を持たなけらばならない。
自分の息子が、世間に迷惑をかけないように。後ろ暗い結末を迎えないように。
——―本当に、殺すのか?
頭の中で、他の誰でもない自分自身が、そう問いかけてくるのを感じた。
——―お前は、また逃げているだけなのではないか?
——―息子に向き合わないどころか、酷く自分勝手な行為に巻き込もうとしているのではないか?
——―世間様に迷惑を掛けるかもしれないというのは建前で、自分の願望を押し通そうとしているだけなのではないか?
——―息子を殺して、かつての、幸せだった頃の妻と息子をアインとして蘇らせたいだけなのではないか?
——―例え偽りでもいいから、もう一度でもいいから、家族団欒を味わいたいだけなのではないか?
口の端が、自嘲と悲愴に歪むのを感じた。
そうだ。その通りだ。
私は、あの頃の幸せをもう一度味わいたいだけなのだ。あれだけ毛嫌いしていたアインを使って、偽物の家族を作り出し、偽物の団欒を経験したいだけなのだ。
それが、例え偽りの虚像によって形作られた幸福だろうと、この狭苦しく行き詰まった無気味な現実よりは、ずっといい。
怪しまれないように、何の気なしといった自然な動きで、食卓に着いている裕太の背後に回った。裕太は空中ディスプレイを見つめるのに夢中で、私のことなど気にしていない様子だった。
アインに実在する人物を投影させる場合は、故人でなければならず、血縁者しかその権利を持たないというのは、昨夜下調べをしている最中に知った。つまり、生きている家族をアインに演じさせることはできないのだ。だが、亡くなっていさえすれば、生活補助型AIホログラムの外見として、疑似再生が可能になる。それも、写真や生前の記録映像さえあれば、決して亡くなった時の外見でなくとも、再現できるという。幼年期、少年期、青年期と、自由自在に。
この家の中は普段、どこであろうとmimamoが目を光らせているが、先程、居住者観察プログラムのいくつかの事項に制限を掛けておいた。全部屋のカメラはモーション感知のみ動作するようにしておき、録画機能はオフ。非常時などに確認することができるログはアーカイブに残らない。声によって助けを求めても、病院や警察といった機関に連絡できないように権限を奪っておいたので、事はすべてこの家の中で完結するはずだ。
管理機構がmimamo越しに見張っているので、スマートマンションの住民の生活は筒抜けだ、つまり政府に監視されているのだ、なんて噂を耳にしたこともあるが、いくらなんでも政府の創設した公的機関がそんな倫理に反することをしているはずがない。大方、ネットで真実だの、陰謀論だのが好きな連中がくだらない嘘を吹聴しているのだろう。
——―大丈夫、きっと大丈夫だ。
逆手に包丁を握った右手を、振り上げる。
首元を刺す。きっと揉み合いになるだろうが、遅かれ早かれ出血死するだろう。反撃されて、怪我を負うかもしれないが、好都合だ。警察には、引き籠りの息子が包丁を使って襲ってきたので、どうにか取り上げて反撃し、やむを得ずに命を奪ってしまったと言えばいい。mimamoの制限も、証拠を残さないように息子がやったのだろうと証言すれば完璧だ。
音を立てないように息を吐き、右手に力を込める。
私は、
きっと、
隣の澄田夫人のように、
あの頃の家族団欒を、
もう一度、
それが例え、
偽りの虚像だろうと―――。
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