10話

 何かに頬を撫でられて、瞼を上げる。


 知らぬ白い天井。汗をかいた上半身を起こして見回した。

 程よく固いベッド、好みの高さに近い枕、重い掛け布団、開けっ放しの仕切りカーテンと窓、何も映っていないテレビ。シンプルな棚の上には、林檎の入った籠。鼻と脳がやっと起きてきたのか、消毒液の匂いがした。

 頬を軽くつねる。この痛み、間違いなく現実だろう。先程までのは夢か、なんだそうか。なぜ病院に?


 左胸に触れるが何ともない。

 扉が嫌な音一つ立てずに開き、誰かが入ってくる。


「おや。おはよう、春章はるあきくん」


「えっ……おはようございます、泉地いち先生」


 昔からお世話になってるお医者さん、鴨宮かもみや 泉地先生。ボサボサで白混じりの黒髪に無精髭、そして何より優しそうな目をしている、白衣が似合う人だ。彼の勤めている、警察病院か。


「そうだ、林檎を剥いてあげよう」


「あ、はい、お願いします…」


 窓を閉め、鍵をかけると、先生は積まれた林檎からより赤いものを手に取って、メスで切り始めた。…なぜ今メスを持っているのかは、あまり気にしないようにした。ベッドに備え付けられたテーブルを出すと、片手でペットボトルを一本置かれる。今流行りの “ こ〜らお茶 ” だ。


「私のお気に入りでね、良ければ」


「あ、ありがとうございます」


 手に取り、さっさとキャップを開けて口をつけた。

 …クソ甘い、なのにクソ苦いような。まずどろりとした舌触りが良くない、中にジャリジャリと砂糖の塊が残っている?いやそういう商品?なぜこんなものが流行ってるんだ。


「不味いけど、妙に癖になるんだよねえ。毒にしかならないのに」


 しょり、しょり。しゃり、しゃり。先生は手際よく林檎を切っていく。


「ああそういえば春章くん、君は一週間ずっとそこで寝ていたよ」


 飲み込んでいなかったこ〜らお茶を吹き出しそうになり、器官に入って酷く噎せた。現実だったのか?OLも灯護とうごも、刑事達も。


「っごほ…、嘘でしょ?」


「いや本当、今日でちょうど一週間──いや、一週間と一日かな。君のお友達、灯護くんも別室で入院中。元気だよ」


 安心した。いや、あんな勢いで壁に叩きつけられて、人間生きていられるのか?

 うさぎの形に切った林檎が六匹置かれる。


「まあそれはいいんだ、これを見て欲しい」


 一週間も眠り続けていたことを軽く流して欲しくないのだが!

 泉地先生は林檎を切り終わったメスを仕舞い、一枚の紙を出してくる。銀の筒?の写真。「N」と黒く刻まれている以外、とてもシンプルだ。ニチアサにでも出てきそう。


「この筒、注射筒シリンジが君の胸に刺された、撃たれたが正しいかな?運良く心臓には届いていなかったようが、なかなか危険な状態でね。撃たれた勢いで肋骨折れて、筋肉は傷ついてるし、肺の膜は破れてるし、大動脈も傷ついて中で大量出血してるし、血圧は低くなって心臓が弱ってるし。正直、 “ これ、ダメじゃない? ” とか思っていたよ」


 ド素人でもなんとなく、ヤバさは分かる。でもダメじゃない?なんてやめてくれ先生。今助かってるからいいけど。


「君に注射筒こいつを撃ち込んだ狙撃手スナイパーは行方知れず、OLは無事に逮捕されたそうだ。中国に対人用麻酔銃があるなんて聞くけれどねえ。春章くんが対人用麻酔銃そんなモノ持ってるヤバぁい人に喧嘩売るような子だとは思えないしなぁ…」


「は、はは…無理ですよ、学校のヤンキーにすら売れないのに」


 うさぎ型の林檎を一匹、口に運ぶ。色艶美しい林檎。噛む度に蜜が溢れ出す、柔らかな果肉。甘味と酸味のバランスがとてもいい。結構なブランドの林檎だろうか。


 ──というか、なぜ俺が標的ターゲットになった?

 誤射の可能性?いや、注射筒シリンジは真っ直ぐ、刑事の間をすり抜けて俺に来た。最初から俺を狙って?だがゲーム以外で喧嘩なんて売れるような性格じゃないぞ俺は、煽りなんてマナー違反はしないし…


「OLはデコイ注射筒コレを君に撃つことが本命だった?」


「いや、別の勢力の可能性も…」


「あはは、想像が膨らむねえ」


 林檎を一匹かじり、先生は楽しそうに笑ってる。


「ああ、ちなみに。警察の方は、この注射筒シリンジNニューと呼んでいるそうだよ」


Nえぬじゃないんすね」


「本当に。どうして態々ギリシャ文字の方にしたのか。…ま、彼らをお世話している私にも、君にだって、そのうち教えてくれるんじゃないかなあ。…映画の主人公にでもなったのかい?春章くん」


「は、ははぁ…まさかぁ」


 先生だってなかなか特殊、映画に居そうな人だ。警察病院に勤めている名医(自称)。何度か転科したとか、資格を大量に持っているとか、噂されていた気がする。趣味はゲーム、映画鑑賞。お陰で割と話が合う。


「君も灯護くんも、明日退院だよ」


「…早くないですか?」


「まあちょーっと早いかな。それくらい調べてあるから。君の意識があるうちに今日と明日、もう一度検査をして終わりだよ。あとは…刑事さんたちとお話することになるかな」


 一週間もあって見つからないなら、まあそうなるのか。刑事と言うと花曇さん、名残警部の二人…いや忙しかったりすれば、ほかの人が来るか?


 速めのノック音が三回鳴る。「どうぞ」と先生が答え、扉はゆっくりと開く。

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