4話

「…食葉くはくん!」


 音がはっきり聞こえる。頭を抱えながら立ち上がった。 少々重いが、動ける。


「帰らないと」


「食葉くん?だ、大丈夫なの?」


 帰宅のことで、帰りを待つ家族のことで、頭がいっぱいになる。隣にいたうるさい女の手を強めに払うと、近くの棚に背中をぶつけていた。鉛のような体を引きずって、ぼくは近くにあった硝子ガラスに向かって突っ込んだ。


 悲鳴。





 一軒家。玄関を雑に開き、足を進める。動く度に頭や腕から血がぽたりぽたり、滴り落ちていく。


「おかえり、お兄ちゃ」


 良い香りがする台所に立っているのは妹だ。

 最愛の妹、大切な妹、世界でたった一人の妹。


「怪我してるじゃん!?硝子刺さって…な、なんで?どうしたの?きゅ、救急車っ!」


 腕を引き、壁に縫いつける。

 澄んだ紫の眼。王道だがアメジストなんて喩えれば良いだろうか。それを縁どるのは長くてしっかりした睫毛。脆そうな、ほっそりとした腕、そして首。もう少し力を入れたら、簡単に折れそうだ。溜まっていく涙も紫色で、きらきらと輝いている。頬を伝い、涙は落ちていく。勿体ない。やめて、離して、と懇願する声は、今にも消えてしまいそうだった。頸動脈をぼくに圧迫されて、必死に藻掻く彼女は綺麗だった。

 左の頬に強い衝撃が走る。うっかり力を緩めてしまったようで、ぼくの手から逃げ出した彼女は咳き込んでいた。


「っいや…!来ないで!!」


 そんな言葉は聞き流して一歩、また一歩と彼女に近寄る。いきなりで驚かせてしまったか。彼女は短い悲鳴を上げ、震える手で先程まで肉を切るのに使用していた包丁を握り締めていた。ああそんなに照れなくてもいいじゃないか、ぼくら兄妹だろう。


「た、たすけて、だれかっ、おにいちゃ」


「大丈夫。」


 蝶や花を扱うように優しく彼女を抱きしめれば、包丁はカラリと床に落ちる。簡単だ、単純だ。胸に顔を埋めさせる。そのせいで表情は分からないが、彼女からは安心したような声が漏れ出している。しかし呼吸が荒い。


「しっかりして、おにいちゃん……」


 ──急かさなくても今やるから、大丈夫だよ墨生すみお


 彼女の足に根と蔓を這わせ、絡め、締め上げ、突き刺す。家中に響き渡るほどの絶叫。近所迷惑というやつじゃないか。暴れようとする腕にも突き刺して、中で思い切り締め上げてしまう。すると、不思議な感覚が伝わってきた。腕を軽く揺らせばコツコツと音がする。力加減が良くなかったか、本当に折れてしまった。首は折らないようゆっくり、絞めつける。


「ぎ、ぐッ」


 苦しそうな、声と言って良いのか分からない音。意識を手放しそうになっているのか、彼女の目は上を向きそうだ。すぐに緩め、頬を優しく叩く。まだ出せるだろう。もっとかれに見せてあげないといけないんだ。たくさん感じて、たくさんかれに愛されてから。


「な、んで…?…お、にいちゃ……」


「いい子、いい子。我慢できるよね」


 そのまま服の隙間に忍ばせた根を、腹に突き刺した。返事の代わりに、彼女の口から赤混じりの液が漏れ出す。肉を裂き、邪魔な骨は断ち、やわやわと臓物なかみに触れる。探りだと、どれがどれだか、全く分からない。今触れているこれは腸だろうか、こっちは肺?人間もなかなか、複雑な作りをしている。

 揺れる紫に映し出されたぼくと目が合った。


「大丈夫、怖くないから」


 そのまま優しく、壊さないように、頭を撫でてやった。

 ガンガンと頭が、人間で言う額辺りが痛い。何を今更。望んでいたのは、解放を受け入れたのは墨生じゃないか。それとも、ああ、物足りないのかい?妹に拒絶されて、悲しいのかい?


「ぼくは墨生、墨生はぼく。ぼくは墨生のことを誰より、なんなら墨生きみ自身よりも理解しているつもりだよ」


 もう声が出なくなっている妹の内臓なかに根を張り、実を植え付けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る