3話
立て付けの悪い扉を思いっきりスライドさせる。キィと嫌な音が鼓膜を震わせ、全身に鳥肌が出る。
「いた、
図書室内を見回すと、彼女は入口の隣に設置されている本棚の前にいた。俺に気がつくと「おお…」と声を漏らし、手から本が滑り落ちそうになっている。
「
「正解だよ」
「あはは、やっぱり。そのぐらいしか、私に用がある人はいないから」
自嘲気味に笑いながら彼女は近くの椅子を手で指し、座るよう促してくる。「少しだけ待ってね」と言われたので、座って彼女を観察することにした。
ボブカットの茶色がかった黒髪、花も傷もない白い肌、お手本のように着込んだ制服。知的な印象を与える円形タイプの眼鏡はレンズが分厚い、相当目が悪いのだろうか。指先で本を撫で、丁寧に一冊ずつ仕舞っている。
彼女はいつの間にか、目の前に来ていた。
「お待たせ、見てみるね」
冷たい手を頬に添えられ、植物に触れられる。それがくすぐったくて、ついつい目を閉じた。代わりに他の感覚が研ぎ澄まされる。甘い香りが鼻をくすぐる。数週間前、理科の変態教師が「若い女性にはラクトンという、香気成分が分泌されている。」なんて言っていたことを思い出した。 これのことだろうか。
「
「クワ?」
上瞼と下瞼を別れさせれば、蜂蜜色と目が合った。正しくは俺自身ではなく植物、桑を彼女は見ているのだが。
「うん。本来は蔓がなかったと思うけど…いや、忘れちゃった。無かったとしても開花病だし、変異するのは珍しくないね。また
彼女の手はすっかり自分と同じくらいの温もりになった。他の奴にもこうやってるのか?勘違い野郎が出てきそうだが。そんなことを考えてる間に、彼女の手が頬から離れる。
「そう言えば前に来た人は桜でちょっと大変そうだったよ。鹿とか、トナカイの角みたいにおでこから生えてて」
ぺらぺらと饒舌に話している途中、ハッとした顔になって
「ごめん、一方的に話しちゃって」
「いや、嬉しいよ」
あまり積極的に話すタイプじゃないと思っていた。好きなことにはとても情熱的な、
「
微笑まれた。
そんなこと、春章や
──向けられた表情で少し、ほんの少しだけだが、脈を早くさせられた気がした。
『だめじゃないか、
声が脳に響いてくる。声は、自分とそっくりそのままだ。
驚く暇もなく、体に異変が起きる。視界がぐらぐら揺れ、歪み。赤、青、白、黒など色が凄まじいスピードで切り変わっていく。さらに全てが二重、三重、四重とブレ始めた。呼吸がだんだん浅くなる、胸がなにかに締め付けられている、胃から言い表しがたいものが上がってきて喉が熱くなる。じっとりと身体中に、嫌な汗が滲む。
バランスが分からなくなって、椅子から転げ落ちてしまった。 痛いが、他の症状が強烈すぎる。
『きみには、心に決めた人がいるのに。浮気だなんて』
ああ、これは、死ぬ。
直感的にそう感じた。花土さんがかけてくる心配の声は、耳鳴りにかき消されてしまった。
『墨生。ぼくに委ねてくれ、それだけでいい』
男が、倒れた俺を覗き込んでいる。
お前は誰だ。そう問いかけようとしてもはくはくと、口を開けることしかできない。俺は腹を空かせた鯉じゃない!
『
声が響く度、頭が痛い。ハンマーで思いきり殴られているような、脳を直接触れられているような、今にもカチ割れてしまいそうな痛みが。
左の目玉が熱い。自然と溢れてきた涙は熱湯となり、頬や桑を伝っていく。ブレていても、ボヤけていても、桑が少しずつ、伸びているのがわかった。
『大丈夫、』
男の手が伸びてくる。手を払い除けようとしたら幽霊みたいに透けて、自分の左頬に触れられた。こちらからは干渉させてくれないのか。
そっくりの声の主は、この男だろうか。
自分の声と違うところを、一つ見つけた。
『怖くないから』
気持ち悪さを感じるほどに、優しい声色であることだ。
────地底深くで、長年眠り続けていた巨大な蕾が今、花開く。
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