2話

食葉くは 墨生すみおくん、よく眠れたかい?」


 黒板に叩きつけられるチョークの音を最後に、何があったのか全く覚えていない。重い瞼を上げれば、香月こうづき先生のニヤニヤ顔がドアップになっていた。今まで突っ伏していた自分の机を見ると、広げられたノートや教科書には幼稚園児よりも酷い字。ひょろひょろとミミズが走ったような線まであるが、一ミリも覚えてやしない。

 教室を見回すが、他に誰もいない。一部女子なら顔を真っ赤にしたり、黄色い悲鳴をあげたり大歓喜だろう。俺はちっとも嬉しくない、代わってくれ。


「お前が寝てる間に授業も、HRも終わったぞ」


「は」


 黒板の上に設置された時計を見れば、部活が開始して30分ほど経っている。帰宅部の自分にはまあ関係ないことなのだが。誰も起こしてくれなかったのか、春章はるあきのやつも。


大車おおぐるまなら “ ゲームのアップデートあるんで、墨生にごめんと伝えといてください ” つって速攻帰った。他の奴らも忙しそうで、俺とお前、二人っきりになったわけ」


 あいつのお気に入りのゲーム、毎週金曜日、今日がアップデートだったか。そりゃ早く帰るか。


「…じゃあ、あんたが起こしゃいいじゃないですか」


 軽く睨むと鼻で笑われ、おそらくHRで配ったプリントを二、三枚渡される。帰ってから見ればいい。ファイルに挟み、鞄へ雑に突っ込んだ。


「だってお前、寝不足っぽかったから」


「…なんで分かるんですか」


「朝からぼーっとしてたからな。俺の授業受けずにそうなってる奴は寝不足、もしくは恋愛中だ」


 ぼーっとすることなんて他にもあると思うが。

 …ここ最近、ずぅっと寝不足だ。植物を無理やり植え付けられる夢を見て起き、誰かにずっと話しかけられる夢を見て起き、顔から何かを引きちぎられるような痛みを感じて起き、全く深い眠りに入れなかった。開花病の前兆?いや、まさか。 どこかでそんな話を聞いた気はするが。


「ところで…、見えてんの?」


 寝ている間に、植物は左目をすっぽり隠すほどに成長している。伸びた蔓、大ぶりの葉。蕾か実か、分からないがその数も増えた。複雑に絡み合って俺の視界を塞いでいる。


「いや、全く見えないっす」


 かき分ければきっと見えるだろうが、変にいじくるのは良くない。痛みも痒みもないからあまり触れないが。


「そういや花土かどのとこ、行かなくていいの?」


「あっ」


夏恋かれんのやつも言ってたろ。図書室出没率、クソ高丸たかまるちゃんこって。早く行きな」


 こいつら実はデキてんのかなぁ。なんて余計なことを考えながら「サンキュー」とだけ言って、鞄を指に引っ掛け、教室を出た。視界の隅に「ばいばーい」と手を振る先生が一瞬映る。



 階段手前の曲がり角、影が突然現れる。向こうも急ブレーキを踏んだようで、衝突はどうにか避けることができた。


「む、墨生か」


「ウゲ、灯護とうご…」


「人の顔見てウゲってなんだ君。急に飛び出すな、危ないだろ」


 こいつと遭遇エンカウントするとは。空声からこえ 灯護。金髪を適当にオールバックにした爽やか系のイケメン。キュッと吊り上がった目尻に大きめの瞳、いわゆる猫目と言うやつか。スポーツ万能、成績優秀、文武両道、超優等生、これらの言葉から生まれてきたような男。オマケに性格もイケメン。うちのクラスの女子は大体この灯護派か、香月先生派で分かれる。俺含めた男子からすればまあ気に食わん、良い奴だから余計に。

 彼は重たそうなダンボールを両手で抱え、眉間に皺を寄せていた。「なかなか辛そうだな、ざまぁみろ」「そのまま老けてしまえ」と頭の中の悪魔が笑う。


「ハァ…暇なら保健委員会の仕事手伝ってくれ。これから全部の階行って、石鹸補充なんだ」


「悪いな、今から行かなきゃいけないとこあんだよ」


「そりゃ残念。…いや、昼休みに確か言ってたな、花土君のところへ行くとかなんとか」


「お前も聞いてんのかよ」


「春章が叫んでたから気になってな。…階段、転ぶなよ?」


 元気すぎる我が子を見守るような眼差し。無視して、階段を二段飛ばしで駆け上がる。


『転びそう』


 そんな言葉が聞こえた気がして、少し頭痛がした。「うるせえ」と声を張ってやる。

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