第60話 髭面の男
レオンシュタイン一行が教会を出ようとすると、一番前に座っていた髭面の男が近づいてきた。
「兄ちゃん、凄い音だね。感動させてもらったよ。ぐはははは」
豪快に笑う男に、皆、あっけにとられる。
そんなことは全く気にせず、男は自己紹介を始める。
「わしの名はバトラス。旅する農民だ!」
握手をしようとするバトラスをイルマが遮り、注意を促す。
ティアナも控えめにそれに同意する。
定住が
けれども、バトラスはこともなげに答える。
「うちの農場は家族がやってくれてるよ。まあ、俺をあきらめてるってことかな」
そういうと、また一人で大笑いをする。
4人はあきれたようにバトラスを見つめている。
レオンシュタインは気を取り直して、何か用事があるのか尋ねる。
「実はな。俺はお前さんのバイオリンに、いたく感動したってわけだ。それで、次の講演場所を聞き出そうと思った訳さ」
「いえ。私は別に音楽家ではないので、弾く場所は決まっていません。弾かせてくれるところがあれば、そこで弾きます」
レオンシュタインは屈託なく答える。
それを聞き、バトラスは大きく首を振る。
「あれだけの腕がありながら、どの劇場でも弾かないのか。もったいない」
「もったいないと言われましても」
バトラスは真剣な顔でレオンシュタインを見つめる。
「わしが今まで聞いたバイオリンの中では一番なんだがなあ」
ひたすら信じられないを繰り返すバトラスに、レオンシュタインは笑顔でお礼を述べ、その場を立ち去ろうとした。
バトラスは慌てて、引き留める。
「いやいや、待ってくれ。これからお前さん方はどこへ行くんだ?」
「まだ、決まっていませんが王都へ向かおうと思っています」
するとバルバトラスは自分も王都に用事があるため、同行したいと提案してきた。
イルマは同行が難しいと即答し、ティアナも難色を示す。
それを見たバルバトラスは、背負っている袋から1つの巻紙を取り出した。
「こいつを見てくれ」
ティアナは渡された紙を見たが、何を書いてあるのか全く読めない。
そのため、レオンシュタインに渡す。
「これは大学の博士号だね。法律学。バルバトラス・ザクセンフュラート。ポロニウス大学」
レオンシュタインは驚愕を押し殺して答える。
「あなたは、あの高名なバルバトラス先生ですか?」
「高名かどうかは知らんが、本名はバルバトラス。普段は農家のバトラスと名乗ってる」
バルバトラスは片目をつぶって、にやりと笑う。
バルバトラスといえば、大陸で一番有名なローマ法の大家である。
学びたい学生は引きも切らないほど人気がある。
ただ、かなりの変人ということでも有名だった。
そこで、レオンシュタインはなぜ偽名を使っているのか質問してみた。
「実は大学を首になってなあ。別のところで働こうにも、名前を出すと、みんなお断りすんだよな。だから、偽名で新しい勤め先を探している最中ってわけだ」
バルバトラスはあっけらかんと話す。
イルマは警戒の目を緩めない。
逆にフリッツは興味津々といった様子でバルバトラスを眺めている。
少し考えてから、レオンシュタインは問いかける。
「では、バルバトラス先生」
「バトラスで結構」
「バトラスさん。あなたが書いた本の名前は?」
「わしが初めて書いたのは『ローマ法と伝統的慣習法の調和』だよ。それ以外にもいろいろあるが」
「いえ、それで大丈夫です。私も読みましたので」
ほうっと言いながらバトラスは目を細める。
自分が書いた本の読者がいるのは嬉しいのだろう。
「君はラテン語が読めるんだね」
「はい、家庭教師から教わりました」
レオンシュタインは突然、言葉を変えて語りかける。
「quid faciam? quo eam?」(一体私は何をしたらよいのか? 一体私はどこへ行けばよいのか?)
「deo duce, non errabis.」(神が導けば、あなたは誤ることがないであろう)
バルバトラスもすらすらと答える。
レオンシュタインはイルマに警戒は止めるように話す。
ラテン語を自由に操れる詐欺師や盗賊がそんなにいるとも思えない。
著作名からも本人であることが裏付けられる。
あらためてレオンシュタインはバルバトラスに語りかけた。
「先生。王都までご一緒しましょう」
「お、そうか? では、よろしくな。ぐはははは」
バルバトラスは大きな口を開けて豪快に笑う。
けれども、イルマとティアナは目の前の男がそんなに偉い学者だとは到底思えないのだった。
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