1-3

 狭いエスカレーターの中で≪カルメン≫はWにぴったりと身を寄せて二人無言で扉が開くのを待っている。


 ただ流れに身を任せてここまでやってきたことに少しばかり後悔をしていた


 カラオケ自体、Wにとってはなじみのあるものではなかった。勉強熱心だった彼は、あまりこういった遊びを知らず、勝手のわからない場所に、初対面の女と向かっていることに恐れすらあった。


 そうして、やっと扉が開くと小綺麗ながらも、どこか俗っぽいその内装にまたトキメキを感じてしまう。≪カルメン≫に手を引かれながら受付をすますと、狭い廊下で身を寄せ合って進み、小さな個室に二人向かい合って腰を下ろした。


 テーブルが二人を分けているが、手を伸ばせば頬に触れられそうな距離であった。そのため、足はぶつかり合い。しっくりくる姿勢を探すのにWは少しだけ手間取ってしまう。


 その間にカルメンはチューハイ缶を一つ開けて、端末を手元に寄せ、曲を選んでいた。


 耳が痛くなるほどの音量が鳴り響き、≪カルメン≫は立ち上がると、綺麗な声で歌いあげて見せた。


 Wは夢でも見ている心地であった。夢というものは、どこか現実味がありながらも、冷静になって考えれば、ありえない状況であることが常だ。自分をいじめていた、嫌っていた人間と走り回り友情を芽生えさせる夢。また全くの存じ上げない他人と恋愛するといった夢もある。会えるはずのない芸能人や、創作上の存在と出会って関係を築くものだってある。


 そのような夢の中にいるとWを錯覚させるほど、このひと時はWという人間からかけ離れていた。そのため、彼は受け身の姿勢から抜け出せず、一曲歌い終わり、二曲目に差し掛かった≪カルメン≫から差し出された缶チューハイにも、一切のためらいを持たずに口にした。


 全身に熱さを感じて、渡されたものを見てみると、強い度数の商品であった。Wはすぐにこれが危険であることに気づき、端に寄せたが最初の一口で重い酔いを食らってしまっていた。


 しかし、その分気分もよかった。≪カルメン≫の歌が美しかったのもあるが、こんな美女と二人っきりで個室の中にいるとい状況が彼の機嫌をより上気させていたことは言うまでもない。


「ねえ、さすがに歌い疲れたわ。あんたも、早く曲を選んでちょうだいよ。私ばかりじゃフェアじゃありません。それに、私はあんたに興味があるのさ。何を歌うかとか、どんなふうに歌うかとか、そんな狭いことを含めて。あんたの全部を知ってしまいたい。だから、歌ってちょうだい。私たちの間には、どこ生まれで、何が好きで、休日はなにをしてるなんて押し問答は必要ありません。ただ、ちょと歌ってみて、お酒を飲んで、二人で笑えばそれもう、深い仲なのよ。だから、楽しく歌ってちょうだい。あんたをもっと見せて頂戴」


 Wは、渡されたマイクを握り占めた。よくよく考えれば、この≪カルメン≫の歌というのはそこまで、聞き惚れるものではないとわかった。彼女は、ただ自分らしく歌っていたのだ。己をさらけ出すように歌い、またそうすることで喜びを感じていた。身振り手振りは少し幼く、可愛げにそれでいてスラスラと歌い上げるもだから、ここまで心奪われるのだろうと。


 ゆえにWもそうしようと心に決めた。≪カルメン≫のいう通り、二人の間にお見合いのような会話は必要ではなかった。


 そうして、喉が枯れるまでWは歌った。酒の缶は空になったころには既に意識は虚ろであり、彼女の言葉がかろうじて聞き取れる程度であったが、相槌を打った後には、はて、一体何に対し相槌を打ったのか? と抜け落ちてしまう始末であった。


 騒がしい受話器の音にWは目を覚ました。責めるように鳴り響くその音に勘弁してくれまいかと、睨みつけてはみたが、次第に自身の状況を理解し始め、獣の早さで受話器を掴んだ。


 店員から、深夜タイムが残り十分で終わるとの知らせをもらう。返事をしようとしたがWだったが、痛めつけた喉からはいくら絞っても声は出ず、受話器を戻して返事とした。


 ≪カルメン≫の姿はこの場所にはなかった。コンビニのビニールと空の缶が数個あるだけであった。どうしようか悩んだが、どうも≪カルメン≫は帰ってこないような気がしてならなかった。仕方なく、ごみをもって帰るかと財布を確認したが、すぐにその財布を地面にたたきつけた。


 寝起きでありながら、こうも素早く自分の身に何が起きたか理解できたのは、心の内で実はある程度の予想ができていたからであった。


 財布の中に入れていた金がすべて抜き取られていた。幸いと言えばいいか、カードや学生書までは抜かれていなかったが、歓迎会の分やその後の二次会を見越して、多くの金を用意していた。それがすべてなくなっていた。


 Wは冷静であった。いや、その内側には静かに燃え盛っていたのだが、彼の性根がそれをこれ以上表に出すことを拒んでいた。


 急いで、彼はボロボロの喉で定員に金を下ろしにいきたい旨を説明した。店員は慣れように外出を許可し、Wはコンビニへ向かった。時刻は午前五時に差し掛かろうといった時間であり、既に朝日が昇り始めていた。


 コンビニから出た彼は、早朝の空気を肺一杯に吸い込んだ。体のけだるさと、その早朝景色の綺麗さ、自分の惨めさも。そのすべてが混ざりに混ざって、Wは思わず笑いがこぼれてしまっていた。


 しかし、戻ろうと一歩を踏み込んだ瞬間、どうしようもないほど強大な虚無がWに襲い掛かり、彼はなすすべもなく飲み込まれてしまった。


 惨めで惨めで、打つ手もなく。いっそのこと死んでしまってもいいとさえ思うほどであり、涙をこらえるのに必死であった。


 この事件によりWの浮つきは完全に消えてしまった。もう、自分へ一切の期待をせず、ただ変わらず勤勉であり、ひっそりと暮らしていこうと心に決めた。そうして生きることで、顔も見えない誰かに認められる気がした。ほめてもらえる気がした。成果が下りてくる気がした。


 ゆえに、この日のことをWは忘れることとし、金を盗まれたことを他言しようとは思わなかった。そもそも、他言した場合はどれほど自分が惨めな目に合うのか想像が容易かったゆえ、どのみち誰に伝えることもなかっただろう。


 そうして、Wは足のつま先を見つめながらふらりふらりと揺れ、朝の街に溶け込んでいった。

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