0-2

 驚いたことに、錠はかかってなかった。だが、部屋の中のWを見た時、すべてに合点がいったのだった。


 Wはベッドの上に座り込んでいた。その身に布団を纏っており、まるで蛹といった風貌であった。顔の半分が外に出ており、ただ壁をじっと見つめているばかりだった。


 あらゆる気力を失った姿があそこにある。こういった人間はある種の自棄に陥っているのだ。ゆえに、錠を開けているのも、助けを求めているという意味ではないことを私は承知していた。

 

 それに、Wは扉が開かれたことなんて気にも留めない様子であった。

まるで飼われている虫のようだ。籠の中に押し込められて、死んでいるのか、生きてるのか判断の難しい、夏を越した頃の虫。それが今のWだ。


 さて、どうしたものかと。


 出鼻をくじかれた形になった私は、彼の勉強机。もとい、元私の勉強机から椅子を引いて腰を掛けた。


「話は……長くなりそうだな」


 私は独り言ちるつもりで、そう言葉を吐いたが無意識のうちに彼に投げかける程度の声音となっていた。


 しかし、これが案外効果的であった。Wがこの言葉に応えたのだった。


「話が長くなるだって?」


 Wは顔をこちらを向けず、壁に視線を食い込ませたままである。一体、彼は今この部屋にいる存在が叔父の私であると気づいているのだろうか?


 私は椅子を持ち上げてできる限り彼の表情が見える場所に移動した。そこはもう、彼が目線を少し横にずらすだけで目を合わせることのできる場所であったが、彼は頑なに視線を動かさなかった。


 彼はまるで壁に語るように一歩的に口を動かし始める。


「そりゃあ、そうですよ。長くなりますよ。もう、何から話せばいいのか。でも、大丈夫です。台本を用意していますから。一体どれくらいの日がたったんでしょうか? 僕はその間ずっと台本を描いておりました。それは、聞かせるためのものでありましたが、自分を整理づけるものでもあるのです。ですから、何度も書き直しが必要でして。最も改稿に改稿を重ねたのが『始まり』です。どう、始まったものだろうと、悩みに悩んで病んでしまったものです。でも、あなたは幸福です。僕は今、ここ最近で一番調子がいいのですよ。なにか、良い風が吹いている気がするのです。その風が運んできたのがあなたなのかもしれない。それで、幸福なあなたに聞かせたいお話があるのです。やはり、長くなってしまうことにはどうか、お許しをいただきたい。どうか、畏まらず聞いてもらいたい」


 私は、彼の言葉を頷きながら聞いていたわけだが、どうも彼はこちらを見る気はないようで、それに長い話になるという。畏まらずという言葉に甘えて、少しリラックスするとした。また、私は好奇心の人間であることから、こっそりと、スマホをつけて彼の話を録音することとした。


 準備が整う前に、Wはまた一方的に話し出した。


「僕がこうなった理由は彼女になります。この彼女というのはもちろん僕がお付き合いしている一人の女性を指す言葉なのですが。僕は、その彼女とここ三ヵ月の間会えずじまいの状況なのですよ。そのせいで、僕はこんなことになってしまったのです。この時点で既にあなたは疑問が生まれているはずです。若者だから、通話くらいできるのではないか? それはできなくとも、メッセージのやり取りくらいできるのではないか? しかし、彼女は誰よりも『自由』を愛する人間なのですよ。こういった繋がりを拒むのですよ。僕らは、婚約までは行っておりませんが、同居の約束をしておりました。しかし、突然彼女が行方をくらませたのです。僕はもう、何もやる気が起きないのです。彼女に対しての怒りを燃え上がらせて、冷やして虚無に堕ちて、また燃やしてを繰り返すことですべてのエネルギーが潰えてしまうというのに、どう生きればいいのか」


「Wよ……」


 私はできる限り、親愛なる叔父として声で彼に語り掛けた。


「理解したよ。どうやら、君の家族は大きな勘違いをしてしまっていたようだね。いや、母の勘はあっていたわけだが。なにせ、こんな話を両親、ましてや母親にすることは耐えかねないものだからね。それで、勘違いというのは、君のどこが病んでいるかどうかという話でね。つまり、君の病はココロの病というわけではなく、恋の病だということだ。こちらに関して、他言しないことを確約しようじゃないか」


 しかし、彼は返事をせず少しだけ顔をしかめた。そして、また先ほどの調子でかまわず話をつづけた。


「それは≪カルメン≫という女です。この≪カルメン≫という女はどうしようもない女でして。しかも、極悪なのです。人を狂わせる悪魔なのです」


※この語りに関し、女は重要な立ち位置にいるのだが。あえてその名を伏せて、≪カルメン≫と表記させてもらう。これは、この物語を書くに、彼女の実名以外の名を書くと嘘っぽさが増したため、あえて嘘っぽさに振り切ることとしたが故の処置である。


 ≪カルメン≫。その名を聞いた瞬間、前置きの言葉などなしに、私は妖艶な美女を想像してしまった。そして、Wはその美女に虜となり、遊ばれ、骨抜きになったのだろうと、勝手に話を作りこみ、今から語られる物語に予防線を張った。そうでもしないと、あまりにも面白い話で「それで、それでと」催促を行ってしまいそうであり、また、つまらなかった場合溜息を吐いてしまいそうであったからだ。


「これは懺悔です。僕たち日本人は深く神を信仰しませんが神を信じている。しかし、そんなご都合のいい私達を許してくれる神の様な存在に対して、語りきれない懺悔の言葉であり、また僕のどうしようもない罪を白日の下にさらけ出す儀式になります。その前置きとして、一つ言わせていただくとすれば。僕はもう死んでもいいのです。ただ、死ぬならば≪カルメン≫のために死にたいのです。あわよくば≪カルメン≫とともに死んでしまいたのです」


 私は、とことん付き合ってやるつもりでいた。故に、半日近く語られたその話に、ろくな相槌もせず。それでいて何よりも真剣に聞くこととなった。


 これから紡がれる一連の物語は、この場で彼から語られた。情熱たる日々の一部である。

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