愛しのカルメン

岩咲ゼゼ

第0話「Wの告白」

 実家に帰るのは久々だった。なんせ、十五年前ほどに大きな建て替え工事を行い、兄夫婦が父母と二世帯住居として使い住み着いているため、帰ろうにも帰れないでいた。


 いや、寧ろ帰ろうと思っても帰れないのだろう。もう、私の生まれ育ったあの景色はなく、新たな家庭の匂いが染み付いてしまっている。あの場所はもうすでに実家ではないのだ。


 しかし、そこにまだ母父が健在であることから、実家と呼ぶしかなかった。


 その日私が呼び出された理由は、なんとも不思議な理由であった。例えば、父の様態が悪化し相続についての話し合いなどと言われれば納得がいく。もちろん、一人のうのうと生きている私よりも、兄家族に多く相続があることは明白であり、そういった話がある場合は私の差し込む余地はほぼ皆無であることは重々承知だ。最悪の場合私を抜いて話し合いが行われる可能性だってある。


 しかし、父の様態は比較的安定しており、病室から一回家に戻れる場合もあるとの話であった。



 では、なぜ私は呼ばれたか。


 兄夫婦の間には、二人の子供がいる。長男のWと次女のユメ。Wは現在とある私立大学にて経済の勉強をしておりつい最近に留年を言い渡され、三年次に進学できなかったと聞いている。ユメのほうは、美容の専門学校に今年から、入校するとのことで、現在すでに実家を出て一人暮らしを始めているとのことである。


 さて、今日の問題は留年をした兄、Wにあった。Wは小さい頃はやんちゃ者で私によく懐いてくれていたが、どうも思春期あたりから気恥ずかしさが出てきたようで、人間関係がうまくいっていないようであった。いつの間にか、寡黙で意見をあんまり口にしない男になっていたが、腹の底では燃えているものがあったようで、たいして口酸っぱくお咎をする必要もないほどの勤勉であり、自ら志願した大学への合格通知を難なく手にした優等生であった。


 しかし、そんな男が、まさかの留年。私は他人なわけだが、一応身内なわけであるから心配を抑えられなかった。


 玄関のチャイムを鳴らすと、素早くアケミさんが扉を開けてくれた。兄にはもったいないくらい、良い女であると両親ともども口にする彼女だったが、今日ははどこか疲れの色を見せおり、老けた印象を私に与えてきた。


 父が倒れ入院した際も、元介護職の彼女のおかげで多くを助けてもらった。私は何もできなかった故に彼女への感謝は大きく、今日の招集にも迷うことなく応じたわけだが、あの時の頼もしかった彼女の面影は、既にこの家には影も存在していないようであった。


「ささ。おあがりください。とりあえず、お茶でも」


 招かれるままに客間に通され、腰を下ろすと。お茶と菓子が運び込まれてきた。どうも、私は『客』のようだ。


「今日は、遠い中。わざわざありがとうございます」


 机を挟んだ向かいに腰を下ろし、アケミさんは深々と頭を下げた。その額が机に張り付きそうな数センチでぴたりと止まり、そしてゆっくりと持ち上がった。


 なんとも深々としたお辞儀なことか!


「それで、Wの様子はどうですか?」


 私は、早々に問題を切り出した。少しばかり世間話でもするのがお作法かもしれないが、私とこの女とで、できる話など父母のこと以外になく。どうも、こういった話ではお互いうわべばかり話すこととなる。まるで型の決まったダンスのように、間違わないよう顔色をうかがいながら慎重に言葉を紡がなければならない。


 電話越しではまだいいが、面と向かい合ってそんな話をするのは御免であった。


 アケミさんも私の思惑を察し、賛同してくれた。そのため、ゆっくりとWについて話し始めた。


「えぇ。困ったものでして。もう、十三日も部屋に引きこもっています。いえ、帰ってきた日を含めれば十四になりますね。となればもう二週間。食事はあまりとってくれず、部屋の前においてあげると少しだけ手を付けて翌朝にまとめて皿を台所に運んでくれるんです。深夜に足跡が聞こえますから、どうやらその時には部屋から出ているようです。その時間に待ち構えて声でもかけてみようと思うわけですが、そんなことで刺激すればもう一生部屋から出ないのではないか、食事にも手を付けてくれなるのではと怖くて怖くて。でも、一目見ないといけないとは思うのです、この頃よく夢に見ますの。骨の形がくっきりと表に出るほどやせこけたWがどこか遠くを向いて泣いているという夢です。本当に、今あの子が夢に出るような姿ならば、私はあらゆる力を行使して彼を部屋から出さなければなりません。しかし、しかしその決意もなかなか定まらない。主人は、催促するのです。速くあいつをどうにかしろと。自分はまるで他人みたいに、そういうのです。でも、どうもこの問題はですね。男の問題のような気がするのですよ。私のような『母』であり、『女』である人間が入り込めないような、男同士で語り合う必要があるような。そんな問題であると私は考えておりまして、さしずめこれも『女の勘』なのでございますが、こういった悪い予感は当たるものでして。それでも、主人は一向にWと向き合ってくれない。それでもう、頼るべきものと言えばあなたしかおらず。しかし、よくよく考えれば、あなたくらいの他人である男性が一番ちょうどいいのではないかと思うのですよ。気兼ねなく話せますからね。年も丁度よいのではないでしょうか? あなたは人より濃い人生を過ごしてらっしゃいますから、よい塩梅の助言をお願いしたいのですよ。あの子は、『自由』を求めていました。やっと自由を手にしたというのに、この鳥かごの中に戻ってきてしまったのです。どうか、あの子に声をかけてください。あの子の声を聴いてあげてください」


 私はじっくりとその話を聞いていた。手中の椀は冷え切っており、中はすでに茶葉のカスが張り付いているだけであったが、両手でしっかりと包んでいた。


「そうですか……。えぇ、お困りの事情はしっかりと理解しました。それに、今の話は事前に聞かされておりましたからね。しかし、あなたの顔を見て異常事態であるということを改めて理解しましたよ。万事すべて解決とまではいかないでしょうが、私のやれるだけのことはやってみましょう」


 私が胸を張ってそういったものの。アケミさんの顔は晴れることがなかった。むしろ、より曇っているほどであった。


 そして、力強く言葉にしたのだった。


「Wは異常なんかではないのですよ。これは、ごく普通の若者に起こりえることなのです。今の子は心が繊細なのです。だからどうか、あの子を変人扱いしないであげてください。あなたも知っているじゃないですか? Wはとっても良い子なのですよ」


「えぇ、わかってます。わかってますとも。私としたことが少し言葉を間違ってしまったようです。では、さっそく彼に挨拶をしてこようと思います。今までの話を忘れて、久々に会う叔父としてね」


「よろしくお願いします」


 アケミさんは再度深々とお辞儀をして見せた。


 私が立ち上がっても、彼女はその場で座り込んだまま俯き。握りこんだ拳でスカートの皺を増やしているばかりだった。


 どうやら、これ以上先は私一人で向かわないといけないようだ。


 玄関口まで戻り、その脇にある階段を上ってゆく。今から行くぞと伝えるように一歩一歩の足音を響かせた。この重み、このテンポ、この緊張。彼はきっと、この家の誰でもないナニカが近づいてきていることに気づいているはずだ。


 しかし、私が彼の部屋の前にたどり着き、中の様子に耳を立ててみても人の気配はなく、一切の警戒も感じられない状況であった。


 私は突然、何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。扉越しに、「叔父さんだよ。お母さん心配しているよ」なんて言うのすらもったいなく思う。この男にここまでの配慮をすることを放棄することとしようと考えたのだ。


 すなわち、私は無言でドアノブを握り、レバーを下ろした。

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