第166話 折り返し

 ホテルに帰ってきたのは、時刻にして午後九時半ごろだった。


「花火、綺麗だったね」


 浴衣を脱ぎながら、エリナがそう言った。それに同意しながら、私はエリナの浴衣をもっと見たかったなぁ、と少しがっかりする。


「私、花火をじっくり見たのは初めてだったから新鮮だったわ」

「楽しめたようでなにより。私も久しぶりに花火を見れてよかった。楽しかったね」

「えぇ」


 本音を言えば、もっとエリナとお祭りを回っていたかった。もっとエリナと一緒に花火を見ていたかった。

 けど、時間がそれを許してくれない。祭りの時間はすぐに終わってしまったのだ。


「エリナちゃんは、どうしてお祭りのこと知っていたの?」

「ネットでね。偶然見かけたときは心躍ったよ。澪おねーさんとお祭りに行けるなんて、思ってもみなかったことだから」


 エリナの言葉はすごく嬉しい。私とお祭りに行けたことを、心底喜ばしいと思っているのがわかったから。

 でも同時に、何かが引っ掛かった。たとえるのなら、叶うことのない夢を語るかのような、そんな違和感。

 

「さ、お風呂行こ。疲れたし、汗かいたからさ」


 エリナがTシャツを頭から被る。最低限浴場まで行くまでの服といった様子だ。私としては、もうちょっと警戒心のある格好をしてくれた方が安心できていいのだが、とか思った。


「そうね、えぇ。行きましょう」


 私も浴衣を脱いで、服を着替える。浴衣とはいえ、そんなに脱ぐのに苦労はしなかった。

 そして、着替えた自分の服を見下ろしたとき、私も今のエリナの服装と大して変わらないなぁと思ったのだった。




 浴場は大きかった。ホテルの客が一堂に会しても、なお余裕がある――かは微妙なラインかもしれない。どれだけの人を抱え込めるのかを知らないから、何とも言えなかった。

 体を洗って、浴槽に浸かる。一日の疲れが足先からじわじわーと逃げていく感覚が心地よい。


「気持ちいい……」


 エリナがポツリと呟く。見ると、表情が溶けている。それだけ心地が良いのだろう。

 私にしても、きっとだらしない顔をしているに違いない。こんなにも快適な環境にいるのだから、だらしない顔をしなければ嘘というものだ。

 浴場内を見ると、見覚えのある顔がチラホラと見受けられた。お祭りですれ違った親子とか、そういう人たちだ。


「ねね、澪おねーさん」


 エリナに呼ばれて、私はそちらに目線を向ける。


「今日は楽しかったね」

「えぇ、楽しかったわ」


 努めて自然に、エリナの胸を凝視しないことを意識した。これがなかなかに難しい。だってエリナが目の前でお風呂に入っているのだ。久しく見ることのなかった――。


「また一緒に旅行、行きましょうね」


 意識からエリナの体を外す。決して、その形の良い胸とかに目線を向けない。

 本心は、それはもう死ぬほど見たい。


「そうだね、またどこかに行きたいな。今度はもうちょっと遠くに――そう、キャンプとか行きたい」

「いいわね、キャンプ。バーベキューとかもしたいわねぇ」

「いいね、バーベキュー」


 楽しそうにエリナが話す。その顔を見ているだけで、私も楽しくなれる。


「飯ごうでご飯も炊こうよ。飯盒炊爨はんごうすいさんっていうんだっけ。憧れがあるんだよね」

「いいわね、飯ごう。買っておかないといけないわね」


 会話が弾む。それがまた楽しい。疲れた脳で、ただただ将来の展望について語っている。

 本当にキャンプに行けるのかはわからない。わからないけど、そうなったらいいな、と思った。


「それからさ、温泉にも入ろうよ。キャンプ地の近くには温泉があるって聞くし」


 そうしたら、またエリナと一緒にお風呂に入れる。それは魅力的な提案だった。

 しかし、罪悪感を覚える。私は好きな人の裸を見れて嬉しいけれど、それすなわち性的な目線を向けているということで。

 エリナはそのことを知らないから、純真なことを言う。一緒に温泉に入ろうって、言ってくれる。

 だから罪悪感を覚える。あなたがそう言っている相手は、あなたのことを性的な目で見ている人ですよっていう罪悪感。


「澪おねーさん?」

「なんでもないわ。えぇ、なんでもない」


 言われて、私は現実に戻る。いつの間にか罪悪感で押しつぶされそうになっていたらしい。


「明日は何しようかしらね」


 ごまかすように、私はそう言った。だけどそれは、きっと間違いではないのだろう。

 だって、今日は終わっても、まだ明日があるのだから。

 まだ、エリナとの旅行は終わっていない。そのことがとてつもなく嬉しかった。

 旅は罪悪感と、楽しいという気持ちを抱えて進む。

 私とエリナの旅路は、もうすでに折り返しまで来てしまったのだった。

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