第162話 コイ味

「あー、極楽だわ」


 私は浮き輪を体に着け、海に浮かんでいる。人は多いけれど、浮き輪を使うぐらいの余裕がある混み具合で良かった。

 顔に照りつける日差しの暑さと、海の中に入っている胴体の温度差が心地よい。

 が、そんなことは正直どうでもいいのだ。いや、どうでもいいわけではないのだけど。

 私が極楽だと言ったのは、目の前の光景に対してだ。

 ぷかぷかと浮かぶエリナ。体を仰向けにし、自重を海水に支えてもらっている。体はゆっくりと波で揺れ、その感覚を楽しんでいるように見えた。

 エリナが言うには、泳ぎの練習の第一歩は浮かぶことらしい。リラックスしているように見えて、実は結構力を入れているのかも。


「ほんとう、極楽だね」


 いや、やっぱり本当にリラックスしているように見えた。

 周囲は喧騒が包んでいて、その中で私たちだけが世界から切り離されている。

 一通り騒いだ後、少しだけと浮き輪を持ち込んだのが運の尽きだ。それによって、私たちはこうして完全にリラックスモードに入ってしまった。

 そして、私が極楽だと言って見つめる先にはエリナがいる。私の視線は彼女のある部位に集中していた。

 あくまでも自然に、私は目線をエリナの胸に向けていた。

 仰向けになって海に浮いている彼女の胸は、かなり強く主張していた。海から出ている部位が、顔と胸だけなのだ。そりゃあ主張も激しくなるというもの。

 彼女の胸を、波が打つ。形の整った豊満な胸の形が、波の形を変化させる。

 遠くには本土が見えて、そこからくる高速船が見える。


「でも、おなかが空いた。そろそろご飯食べない?」

「そうね、そうしましょうか」


 エリナが体を起こした。海底に足を付けて立ち上がる。私も足をバタつかせて、足が届く場所まで移動した。

 移動した、と言ってもほんの数メートルだ。海底の傾斜は結構きつく、その結果としてちょっとの距離でも足が付いたり付かなかったりする。

 しかし、意外と前に進まない。浮き輪が抵抗になってしまうのだ。


「もう、澪おねーさん」


 エリナが数歩こっちに来て、手を伸ばす。プルプル震えていることから、これ以上は彼女の足が届かないところなのだろう。

 私はその手を取る。浮き輪がかなり邪魔ではあったけれど、何とかつかめた。浮き輪が変形して、私の腹部でぐんにゃりと曲がる。

 エリナは私を引っ張って海から上がっていく。誰かに手を引かれて進水するという感覚はすごく新鮮だった。

 ややあって、私も足が海底につく。でも、エリナの手を離すのが惜しくて、そのことを告げるかどうか悩む。


「もう、いいわ。足が付いたから」


 だけど、海は危険な場所だ。そう思って私はそう告げた。


「そっか」


 エリナはそっけなく言って残念そうに手を放す。もしかしたら、彼女も手を離すことを残念に思ってくれているのだろうか。


「ご飯どうしようね」


 残念さを隠すように、エリナはそう言って振り返る。私はわずかな時間、手のひらを見つめてから、


「海の家でいいんじゃない? せっかく海に来たんだし」


 名残惜しさを振り払うようにそう言ったのだった。食事と手をつなぐことに因果関係は正直全くない気もするけれど、言葉を発することで振り払えると思ったのだ。


「そうだね、じゃあそうしよっか」


 エリナがそう言ってくれて、私のアイディアが肯定されたことに少しの安堵を覚えた。もちろん、名残惜しさはこれっぽっちも消えてはくれなかった。

 海から上がると、暑さが一気に襲い掛かる。体表に付いた海水が少しべたべたする、その感覚が不快だった。


「眩しいね」


 こちらを振り返った私に、エリナがそう言った。


「ほら、海面に太陽が反射してさ」

「あぁ、なるほど」


 私も振り返って海面を見る。確かに、真昼の日光を漏らさず反射している海面は、きわめて眩しく思えたのだった。


「でも、私には」


 エリナの方が眩しかった。エリナの明るさに、なんども救われてきた。

 そんなエリナだから好きになったのだろう。


「私には?」

「なんでもないわ。さ、ご飯食べに行きましょう。おなかが空いたわ」


 はぐらかして、海の家に向かったのだった。




 混んでいる海の家は、しかしその回転率で言えば悪くなかった。というのも、混雑しているとはいえ、売っているものはシンプルなものばかりだから。

 初めて訪れた海の家は、コンクリートで塗り固められた構造をしていた。海側に壁はなく、海を眺めながら食事ができる構造だ。

 ほどなくして、私たちも席に着くことができた。机の上に貼られている、ラミネート加工されたメニューを見る。


「どれにしようかな……ラーメンもいいけど、焼きそばも食べたいし」


 私としては、どれでもいいのだが。私にとって、エリナと食事を食べることこそがもっとも重要な要素なのだから。

 そして、エリナが作った料理以外は、正直なところ摂取してもしなくても同じとまで思っている節があった。

 もちろんその考え方がダメなことは十分理解しているのだけれど。


「じゃあ、二つ頼んでシェアしない? そうすれば両方食べられるし」

「えっ、いいの? 澪おねーさんも食べたいものがあるんじゃない?」

「いいのよ、私は。エリナちゃんが好きなものを食べているのを見る方が好きだから」

「そっか」


 ん? 今何かすごく恥ずかしいことを言わなかったか、私。


「……えっ」


 エリナの反応を見て、それが間違いではなかったことを確信する。そう、今私はすごく恥ずかしいことを言ってしまった。


「あー、と。そう、いうことだから、うん。じゃあ、注文してくるね」


 私はその場から逃げるように立ち上がり、カウンターに向かった。ちょうどタイミングよくカウンターにほかの客がいなかったのは幸か不幸か。

 いけない、少し冷静にならなくては。どうにも、浮かれてしまって口が軽くなりすぎている。海から上がった直後も、エリナの方が眩しいって言いかけてしまったし。


「すいません、注文お願いします」

「はい」

「ラーメンと焼きそばを一つずつお願いします」

「ラーメンと焼きそば……はい、千円です。一番でお待ちください」


 これまたラミネートされた、手作り感が満載の番号札を渡される。それを持ってエリナのところへ戻った。

 エリナ以外の人と会話したら、ほんの少しだけ落ち着いてくれた。


「あの、さっきの事だけど……」


 落ち着いたので、私はエリナに一つお願いごとをする。


「その、なんかすごい恥ずかしいこと言ったの、忘れて」

「あー、うん。それは全然いいんだけど。なんで――まぁ、忘れろってことだし、仔細は訊かないことにするね」

「ありがとう」


 沈黙が場を包む。どことなく気まずい。そりゃあ、恥ずかしいことを口走った上にそれを忘れろなんて、気まずくもなる。

 あぁ、恥ずかしいことを口走っただけならまだしも、それを忘れてくれなんて言わなければよかった。恥の上塗りとはこのことだ。


「一番でお待ちの方」


 という声が聞こえてくるまで、私たちは沈黙していた。


「あ、じゃあ取ってくるね」


 またしても逃げるように、料理を取りに行ったのだった。

 こんなので、いつかエリナを振り向かせたいとか笑止千万だ。本当に告白する時、ないし告白される時が来たらどうするのだ。

 はぁ、とため息を吐く。こういう時の答えを、私は知らないから。


「はい、ラーメンと焼きそばね」


 番号札と引き換えに、料理を受け取った。プラスチックのトレーは、お店で使っているものよりもずっとおもちゃっぽい感じで、頼りなさげだ。

 この頼りなさは、今の私みたいだ。エリナのことを振り向かせたいのに、心がまだエリナと一緒に居ることに緊張してしまう時があるのだ。


「難しいわね……」


 恋心って、難しい。そう思っても、好きという気持ちは抑えられないから。


「お待たせ。さ、食べましょう」


 なんてことないように、食事を始める。ラーメンをすすると、妙にしょっぱく感じられた。


「なんていうかさ、こういうところの食事ってちょっと味付け濃いイメージがあったんだけど。やっぱり濃いね」


 エリナが焼きそばを一口飲みこんでからそう言って、私の味覚がおかしいわけじゃないということを確かめる。ついでに、泣いているわけではないことも確かめられた。


「あ、それと」

「なにかしら」


 もぐもぐ、ごっくん。


「私も、澪おねーさんがご飯食べてるのを見るの好きだよ」

「……え?」

「それだけ! これでおあいこってことで」


 エリナがずるるるる、と焼きそばを勢いよくほおばった。

 その顔が少し赤くなっているような気がした。それは、日焼けのせいなのか、恥ずかしいからなのか。


「はい、焼きそば半分食べたから!」


 恥ずかしさを隠すように、エリナが勢いよく焼きそばをこっちに渡してくる。

 なんか、それで少しだけ気が楽になった。恥ずかしい気持ちも、それに対して頼りなさを感じる気持ちも消えはしないけれど、なんだか気が楽になってくれた。

 ラーメンを急いで食べる。それから、器をエリナの方に回した。


「じゃ、焼きそばいただくわね」


 それに、この程度で気まずくなっている余裕はないのだ。旅行はまだ始まったばかりで、気まずさを継続するのはもったいないのだから。


「ほんと、焼きそばも味が濃いわね」


 とはいえ言動には注意するべきだ。私の言動一つで、また気まずくなるかもしれないのだから。

 遠くに聞こえる潮騒と、喧噪。

 好きな人と食べる食事は、それだけでおいしいものに思えたのだった。

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