第159話 船に乗って

 港に着くと、強烈な潮の香りがした。嫌な香りではなく、海に来たんだなぁと感じる香りだ。

 港の中はそれなりに混んでいた。身動きが取れないほどではないが、チケットを買うのに並ぶ必要があるぐらいには。

 チケットの券売機の列に並んで、港内を確認する。建物内は新しいとは言い難く、少しお堅い雰囲気を感じた。市役所のような雰囲気だ。

 建物のすみっこにお土産コーナーが見えた。朝の時間帯は島に向かう人の方が多いのだろう。お土産を吟味している人は一人しかいなかった。これが夕方の時間になると、人が一気に増えるのだろうなぁと思った。そしておそらくは、私達もその一員になる。

 列が動く。が、すぐに止まった。

 私は列の先を見る。人に阻まれてよく見えないけれど、券売機は三台置かれているらしい。

 ちょんちょん、とエリナが私の袖を引っ張る。


「ねね、海の音がするね」

「え? えぇ、そうね」


 言われて、私は耳を澄ませる。確かに海の音がした。

 ざざぁ、ざざぁと穏やかな音だ。今日の風は、優しく海面を揺らす程度の風らしい。それはいい。海に遊びに行くのに、大荒れの海だと遊ぶに遊べないから。


「潮の香りもするし、本当に海が近くにあるんだね」

「近くにあるって言うか、この建物の外は海よ」

「それもそっか。うん、そうだね」


 そう言ってエリナが笑う。それにつられて私も笑った。

 楽しい。なんてことない会話なのに、エリナの言葉一つ一つが瑞々しく、それを聞くことが楽しかった。

 まだ島に着いても居ないのに、こんなにも楽しいなんて。


「島に着いたら何しよっか」

「そうねぇ。エリナちゃんは何がしたい?」

「うーん、色々かな。泳ぎたいし、砂遊びもしたい。ビーチバレーは人が多いから無理かもしれないけれど、ちょっとしたボール遊びだってしたいな。そんなに遊ぶ時間あるかな」

「あるわよ。二日間もあるんだから」

「それもそっか。楽しみだなぁ」


 列が進む間に、そんな会話をした。その全てにおいて、私は興奮しっぱなしだった事は言うまでもない。

 なんか、港に着いてからずっと、私の中で理性のタガが外れてしまったようだ。とにかく楽しくて楽しくて仕方がない。

 話し込むうち、列の先頭になっていた。目の前には無骨な券売機がある。私はお札をその中に入れ、高速船の往復チケットを二枚買った。

 お釣りと出てきたチケットを取って、一枚をエリナに渡した。それから列を外れる。


「船はあと少しで出るみたいだね」

「えぇ。空いた時間でお土産でも見ていく?」

「んー、いいや。せっかくなら向こうで買いたいな」


 エリナがそう言ったので、私達は適当な場所に移動した。

 多くの人が、日間島に向かうのだ。島からしてみれば、商売繁盛でいい感じなのか、人が増えてちょっと勘弁という感じなのか。そのどちらかはわからないけれど、人が多いのは観光地の宿命だろう。


『まもなく、乗船を開始いたします――』


 というアナウンスが聞こえてきた。私ははやる気持ちを抑えながら、乗船口まで向かった。

 改札にチケットを通し、桟橋に。そこには既に大きな船が停泊していた。


「すごっ、え、かっこよくない?」


 どことなくスタイリッシュな感じがする船に、エリナのテンションが上がる。


「人生初の船がこれってヤバいって」

「そうね、気持ちはわかるわ」


 私だって、船は人生で初めてなのだ。内心ではエリナのようにテンションが上がっている。けれども、私は目に見えてテンションを上げられるほど子供ではない。羞恥心が勝ってしまうのだ。

 船ではしゃげるのは、若い子の特権なのだ。私もまだおばさんという歳ではないと思うけれど、やっぱりいい大人なわけだし。

 ……周りに人が居なかったら、あるいははしゃいでいたかもしれない。想像つかないけれど。

 乗船の流れを止めないように、船に乗り込む。


「二階から外に出られるって!」


 エリナがごく自然に私の手を取り、階段を上っていく。滑らかな肌が私の意識に入り込んだ。

 その手をずっと掴んでいたいと思うのは、私のわがままなのだろうか。

 二階にある客室を抜け、木目調のオープンデッキに出る。柵があって、その下には深い海がある。

 そう、海がある。万一転落してしまったら、絶対に助からないだろうといえるほどには。


「すごーい! どこまでも海だよ!」


 エリナが柵に手をついて身を乗り出す。柵が少し錆びていて、折れないか不安になった。

 けど、さすがにそれは無いだろう。そんなにひどい状態なら、柵に触れないような警告があってもおかしくないし。

 エリナの隣に並んで、柵を掴んだ。潮風が顔に当たり、暑い日の中で少しだけ涼しさを感じた。

 船の行く先を見ると、遠くに島が見えた。あれがこの旅の終着点、日間島だ。背景にはどこまでも続く青空があって、今日という日がいい天気であることを神に感謝したい程だった。


「エリナちゃん、島が見えてきたわ」


 あくまでも大人の余裕を絶やさずに、落ち着いた雰囲気を務めて意識しながら、私はエリナに島が見えたことを伝えた。

 内心ではすごくワクワクしているというのに、大人の余裕を見せたがるのはなぜだろうか。エリナに対する虚栄心だろうか。


「ほんとだ! 結構遠いね」

「そうね。二十分ぐらいかかるらしいわ」

「そう考えると、意外と近い……いや、そうでもないかな。まぁ、なんにせよ楽しみ!」


 エリナの眼が輝いている、そんな錯覚を覚えた。実際、瞳に光が反射して輝いている可能性も捨てきれない。

 私はカバンからカメラを取り出す。ごく自然に、エリナから距離を取り、フレームの中にエリナと島を入れる。

 青い海と、緑の島。そして綺麗な髪のエリナが――。



 パシャリ、とシャッターの音が鳴り響いた。



「ん?」


 エリナが不思議そうにこちらに振り向いた。それも、カメラに収めた。


「旅の思い出、いっぱい撮ろうと思って」


 そう言ってエリナに微笑む。エリナはそっか、と笑って、


「じゃあ、一緒に撮ろ!」


 私の手を取り、カメラを逆向きに構えて自撮りの構えに移る。

 ふわりと、良い匂いがした。潮の香りの中で、それとはまったく違った、エリナの落ち着く香り。


「はい、チーズ」


 慌ててピースサインと笑顔を作る。シャッターの音が鳴り響いた直後、一瞬世界から音が消える錯覚。

 私とエリナと、二人だけの写真。それがカメラに収められた。その事実が嬉しかった。


「ふ、ふふ。澪おねーさん、変な顔」


 エリナが撮った写真を確認して、面白い物を見たかのように笑う。私も画面をのぞき込み、写真の出来を確認した。

 なるほど、確かにこれは酷い。自然な笑顔とは程遠い笑顔と、ピースサインになり切れていない指。エリナの笑顔と綺麗なピースサインとは比べるべくもない。

 でも――それでも、この写真は一生ものの宝になる、そう思ったのだった。

 船は進む。白い線を水面に残して。

 島に着くまであと少しだ――。

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