第158話 電車に乗って

 電車がホームに入ってきたのは、私達がホームに着いたのとほぼ同時だった。半ば飛び込むように電車に乗る。


「何とか乗れたね。逃したら十五分は待たないといけないし」

「そうね、こんなに暑い日にそれはちょっとキツイわ」


 家を出た瞬間にわかった。今日は相当熱い、と。そして電車に乗っても、噴き出た汗はそう簡単には引いてくれなさそうだった。

 まぁ、海辺に行けばそれはマシになるだろう。潮風が暑さを和らげてくれると思いたい。蒸し暑いという可能性は考えない事にする。

 しかし本当に幸運だった。時刻表を確認する余裕が無かったのだから、電車がいいタイミングで来てくれるかどうかはわからなかったし。


「けど、混んでるね」

「それは仕方がないわよ。社会人になると、土日出社とか当たり前になるし」


 エリナの言う通り、電車はそれなりに混んでいた。決しておしくらまんじゅうという程ではないのだけれど、座れるほどではなかった。

 私達は車両中ほどまで進み、吊革に手を伸ばした。

 電車はゆっくりと走り出し、それはすぐに高速で移動し始める。街並みが、私の目線では追いつかないほどに早く駆け抜けていくようになって、それがどこかに移動するのだという実感を与えてくれた。

 それにしても、


「エリナちゃん、なんか荷物多いっていうか、大きくない?」

「え?」


 私はエリナの荷物量を指摘する。私が手提げかばんとスーツケース、常用しているバッグが基本なのに対して、エリナはスーツケースの上に大きいボストンバックを置いていた。それに加えていつものカバンも持っているのだから、大きいと思ったのだ。

 

「なに入ってるの?」

「まだ秘密。期待していて」


 エリナがそう言って、意地悪気に笑う。サプライズとかいう奴なのだろう。何を企んでいるんかわからないけれど、それでもエリナの事を信用しているから、きっと悪い事はしないだろうと思ったのだった。

 しかし期待、期待かぁ。……何があるんだろう。見せられないような――。

 一瞬脳裏をかすめたアダルトな想像を振り払うために、こっそり深呼吸した。


「そ、そう。じゃあ楽しみにしているわ」


 それから、平静を装ってそう言ったのだった。まぁ、多分全然装えてないのだろうけれど。

 エリナはそれを察したのか否か、


「それから、水着も期待していてね」


 小声でボソリとささやいた。私だけに届くような声で、それが私を狂わせる。


「期待……」


 エリナのその魅力的な体を包む水着は、どれほどの物なのだろうか。清楚なのかアダルトなのか。それとも別の物があるのか。いずれにしろ悩殺必死なのだろう。

 いけない、私ってこんなにも煩悩塗れだったか。いや、エリナに対してだけこうなってしまうのだ。他の人――例えば大橋さんや、乃亜ちゃん――にはこうはならないのだから、やはりエリナだけが私にとっての特別なのだ。


「私も澪おねーさんの水着を期待しているからね」


 一方の私の水着は、魅力的とは言い難いだろう。エリナに見せるだけの価値もない――と思っている。エリナにとってはどうか知らないけれど、私にとってはそう思うのだ。

 それがエリナにとってどうなのかはさておいて。

 だから、


「期待されても困るわ」


 そう返したのだった。




 名古屋近郊の大きな駅で電車を乗り換えて、またしばらく揺られる。海が見えるかと思ったけれど、そんな事は全然ない。

 ただ、ミニチュアのように見える街が高速で流れていくだけだ。


「だいぶ空いてるね」


 エリナの言う通り、乗り換えた後の電車はかなり空いていた。当然だろう。帰りの時間ならともかく、行きの時間なら名古屋――都会から逆方向に進むこの電車が混む道理はない。

 だから私達は、ボックスシートに対面に座っていた。遠慮することなくそうすることが出来る、というあたり空き具合がわかるだろう。

 これは良い。エリナと二人、のんびりと車窓を眺める時間は至福と言えよう。


「でも、海は見えてこないわ」


 正直に言えば、海が見える事を期待していた。海を見て、エリナと一緒に年甲斐もなくはしゃいだりしてみたかった。


「そうだね。もうそろそろ終点なんだけど」


 この電車は、県内に二つある半島の内の一つを走る。利便性を考えているのだろうが、内陸を走っているせいで海が見えない。


『次は、終点――』


 まぁ、島へ行くには船を使うんだし、歩いていれば海も見れるだろう。


「じゃ、そろそろ降りる準備をしましょう」


 アナウンスもなった事だし、と私は立ち上がってスーツケースを掴む。


「うん」


 電車での旅は終わり。後は港まで歩きだ。

 ホームに滑り込んだ電車から降りて、改札に。改札口を出たところに案内板があった。


「歩いて十分弱だって。良い運動だね」


 エリナの言葉に首肯して、駅舎を出る。すぐに直射日光の異常な暑さが肌を焼いた。

 ひゅぅ、と風が吹いて、少しだけ暑さがマシになった。ほんの一瞬だけだけど。


「ん、ほんのりと潮の香りがするわ」


 私はそのことに気が付く。どうやら、見えないだけで海は近いらしい。

 エリナが不思議そうな表情をした。嗅覚には個人差があるから、わからなくてもおかしくはない。私の方が嗅覚強めなだけなのかもしれないし。

 暑い中歩いていると、すぐに海が見えてきた。遠目でもわかる、その美しさ。


「澪おねーさん、海だよ海!」

「そうね、海が見えたわ」


 内心ではすごい感動している。海というものとは縁がなかったから、こんなにも美しい物だとは思わなかったのだ。

 後は、まぁ。好きな人と見ているという事もあるのだろう。

 いずれにせよ、綺麗だと思ったのだ。ダークブルーに光る水面と、どこまでも続く地平線が。

 エリナがたたたーと走っていく。それからこっちを振り返って、にっこりと笑った。


「綺麗……」


 思わずそう呟いていた。海は美しいが、それはエリナの美しさを引き立てるものだったのだった。

 美しい物は、より美しい物に取って代わられるという事である。


「さ、行こ!」

「ちょっと待って」


 私は急いでカバンに手を入れる。新しく入れた物を手探りで探し、取り出した。

 それは、小さなデジタルカメラ。小さいけれど、画質は良いとお店の人に教えてもらったものだ。この旅行のために買った。

 最初の一枚は、エリナにと決めていた。


「一枚撮らせて」


 エリナにピントを合わせて、シャッターを切る。上手に撮れたかどうかは自身がないけれど、見なくてもわかる。

 エリナを被写体にしたのだから、いい写真に違いない、と。


「何それ、買ったの?」

「えぇ。旅行のために買ったのよ」

「そっか、じゃあいっぱい写真も撮らなくちゃだね。どんな風にとれたのか見せて」


 こっちに近づいてきたエリナが画面をのぞき込む。私は画面横のボタンを操作して、閲覧モードに切り替えた。

 撮った写真を確認する。あぁ、やっぱりだ。エリナを被写体にした写真は、とてつもなく素晴らしいものだった――。

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