第157話 出発直前

 朝六時、土曜日。


「エリナちゃん、起きて。もう六時よ」


 私は、私のベッドで寝ているエリナを優しく起こす。ちなみに私は五時に起きて、朝食の準備を終わらせてあった。

 本来はどっちも五時に起きて、六時半には家を出る予定だったのだが……。


「んみゅ……」


 寝ぼけたような声をエリナが出す。一応起きたようだ。ぼやけた視点でぼぅっとこちらを見つめ、


「朝?」

「朝よ。もう出発する時間」

「出発……あっ、しまった!」


 エリナが飛び起きる。その表情からは焦りが見て取れて、思考が回り始めているのだろうと察した。


「えーと、どうしよう。まずご飯用意して、食べてから化粧して──」

「落ち着いて。ご飯は用意したから」

「あ、うん。じゃあ、とりあえずご飯を──」

「ゆっくり食べてから、確実に準備をしましょう」


 忘れ物とかしたら大変だし、確実な準備が必要だ。

 旅行には二種類ある。最悪帰る事ができればそれで良しの旅行と、決して失敗できない旅行。この旅行は後者にあたるのだから、その準備もまた失敗するわけにはいかない。


「う、うん。ありがとう、澪おねーさん」

「よし。じゃあまずはご飯を食べましょう」


 エリナの手を取り──ごく自然に手を取れたよね? 高鳴る心臓を抑え込めているよね? ──、私の部屋から出る。

 テーブルの上には、シンプルな目玉焼きと食パンが二人分置かれている。それからコーヒーも。食パンは焼かれておらず、そろそろトースターの導入を真剣に考える頃合いだ。

 エリナを椅子に座らせて、その向かいに座った。


「いただきます」


 手を合わせてから、まずコーヒーをすする。挽かれた状態で買った豆は、インスタントほど酷くはないが、風味がやや飛んだ味わいだ。しかし、これぐらいの方が気兼ねなく飲めて良い。

 それから食パンに。今日はイチゴのジャムをたっぷりと塗ってみた。


「ちょっとジャム多すぎじゃない?」

「まぁ、一日二日じゃ目に見えて腹回り変わらないし」

「それもそっか」


 しかしパンの表面が真っ赤だ。まるで鮮血──食事中につき自粛しよう。

 私は少し急いで食事を済ませる。それでも、たっぷりのイチゴジャムは、口の中を甘ったるくした。そこに流し込むコーヒーのなんと美味しいことか。

 甘い食べ物とコーヒー、世界の真理だなとか思った。安い真理だ。


「ごちそうさまでした。エリナちゃん、お化粧して来るわね」


 食べ終わった食器を持って、エリナに声を掛ける。彼女は口の中に入れていたパンを飲み込んでから、


「うん、わかった」


 そう返事をしてくれた。

 私はキッチンで食器を下げてから、脱衣所に移動する。

 鏡の前で化粧を始めた。

 化粧をしながら思う。これって、相当センスが問われる物よね。

 化粧をやってみるとわかる。化粧品の量の違いによるちょっとした色の濃淡が、大きく印象を変えたりする。健康的だったり不健康的だったり。あるいはケバい感じにもなってしまう事も。

 そして、そこまで化粧に慣れていない私は、毎回四苦八苦するのだ。だから食事をささっと終わらせた。

 エリナに、化粧に失敗した私を見せたくないから。

 鏡に向かって、丁寧にじっくりと化粧をしていくと、脱衣所にエリナが入って来る。


「あ、まだやってたんだ」


 鏡越しに、エリナの手元に化粧ポーチを認める。私は少し横にずれ、エリナが私の隣に並ぶ。


「澪おねーさんって、普段化粧面倒くさがるのに、いざやると結構丁寧にやるよね」


 そう言ってエリナが顔を洗い出す。


「まぁ、下手だから丁寧にやるしかないのよ」


 それは半分本当。自分の容姿にとんちゃくしないとはいえ、流石に失敗した化粧を人目に晒すのは嫌だし。

 けど、それ以上に。

 エリナに見てもらうものだから、私は丁寧にやるのだ。

 エリナはタオルで顔を拭き、


「まぁ、慣れだからね」


 化粧水を手に取りながら、私の言葉に返答する。

 エリナにとっては慣れた作業なのだろう。化粧水、乳液とパパパーっと顔に塗っていき、それからベースも迷いなく塗っていく。

 すっぴんでも美少女なエリナが、ナチュラルな化粧によってさらに進化していく。何気に初めてみる気がするエリナの化粧過程に、しばらく目が離せなかった。


「澪おねーさんは拘りすぎなんだよ。化粧って毎日するものだから、ほどほどに手を抜く事も覚えないと。まぁ、これはわたしの意見だけどね」

「なるほど……手を抜くねぇ」


 それ以前に、毎日化粧をするなんて……と思わなくもなかった。毎日化粧をするって、だいぶしんどさを感じるのだけど。


「たとえばさ、目立たない場所とかってあるじゃん」


 エリナは自分の顎の下を指差す。


「こういう所は影になって見えずらいから、ある程度でも問題はなかったりするんだよ。もちろん、ちゃんとやるに越した事はないけど」

「なるほど……」


 説明をしながら、エリナは私のやっている工程を追い抜いた。手慣れているなぁ、と本当に感じた。

 それからも手際良く進めていき、最後に口紅を塗る。


「っと、できた」

「早いわね」

「そりゃあ、毎日してるからね。毎朝毎朝何十分も掛けてはいられないし」


 そう言ったエリナの、程よく色の乗った唇に目を奪われる。

 艶やかで、鮮やか。発色の良いリップなのだろう。だけど主張しすぎない、良い色合いだ。

 その唇に、私の唇を重ねたい。切にそう願う。もちろん願うばかりで、行動には移せないのだけど。


「手、止まってるよ」


 言われて、私は慌てて手を動かした。いけない、これ以上出発を遅らせるわけにはいかないのに、エリナに見惚れていたのだった。




「……よし」


 そんな事があって、準備が完了したのは七時ごろだった。

 荷物を持って家を出る。


「忘れ物はないわね?」


 最後にもう一度エリナに確認する。彼女が頷いたので、家の鍵を掛けた。


「じゃ、行きましょう」


 胸が高鳴る。エリナと泊まり掛けで、遠くに行くという事は初めてで、今までの人生で一番ワクワクしているのだった。

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