第104話 もう一つの屋敷(3)

 テントの撤収というのは手間がかかる。ペグという、固定するための杭を引き抜いて、ポールを外して畳んで──と、まあまあ重労働なのである。

 しかもテント自体が濡れている。原因はよく知らないけど。

 売春時代は設営しっぱなしだったし、今回も一度も畳んでいないから、慣れていない撤収作業を手間取りながら終わらせる。

 それから桐山邸に戻る。インターホンを押すと、慎二さんが出迎えてくれた。


「お、戻ってきたな。荷物それだけか?」


 わたしの持っている荷物を見て、慎二さんがそう言った。


「はい、これだけです」


 着替えの入っているリュックサックと、テントや寝袋を入れている折りたたみ式のキャリーカート。それだけがわたしの荷物だった。


「女の子の一人旅にしてはずいぶんと少ないんじゃないか?」

「そうですかね?」


 わたしは荷物を一瞥する。確かに服は少ないかもしれない。だけど最低限の化粧品はリュックサックに入っているし、コンパクトに抑えてはあるけど少なすぎと評されるほどではないと思う。


「ま、いいけどさ。部屋の準備はできてるから、上がって上がって。あ、キャリーカートは玄関の端っこに置いといてくれればいいから。中身ごと置いといていいからな」


 慎二さんに言われた通り、靴を脱いで屋敷に上がる。


「本当は離れの方がいいんだろうけど、今ごちゃついていてね」


 突き当たりを右に。先ほど応対してもらった部屋──居間だろう──を通り過ぎて、一つ、二つ、三つ目の襖が開けられた。


「ここを使ってくれ。狭い部屋ですまないけどね」


 その部屋は殺風景だった。机一つもない、畳張りの部屋。ずいぶんと冷たい部屋なのだな、と感じた。

部屋の隅には、畳まれた布団があった。それだけが、生活感を感じさせる唯一の存在だった。


「自由に使ってもらって構わない。寝る時以外は布団を畳むのを忘れずにね」

「わかりました」

「夕食はどうする? 今から用意するけど」

「いただいてもいいんですか?」

「もちろん」


 至れり尽くせりというやつだろうか。なんでこんなに良くしてくれるのか、わたしにはわからなかった。


「じゃあ、せめて手伝わせてください」


 申し訳なくて、わたしはそう言った。それと、宿泊費ぐらいは出したいと、そう思ったのだ。


「うーん、手伝うって言っても厨房狭いしな」


 慎二さんが考え込む。少しして、


「じゃあ、今から来る人の応対を頼もうかな。毎日ここに晩飯食いに来るんだけど、自己紹介も兼ねてさ」

「なるほど、わかりました」


 それを家主がしろというのならそうする。わたしに拒否権は無いのだし、泊めてもらう恩をそれで返せるのなら、そうしよう。


「じゃあ荷物を整理したら居間に来てくれ。ほら、最初に案内した部屋な」


 慎二さんが手を振って部屋を出る。

 部屋の端っこの方にリュックサックを置く。荷物整理なんてそれで終わり。

 この部屋にわたし一人。ゴロンと大の字に寝転がってみる。

 窓から差し込んだ光が線となり、舞い散る埃を光らせる。この部屋はずっと使われていなかったのか、少し埃っぽい。

 懐かしい街に戻ってきて、見知らぬ人に出会って。澪おねーさんに会ったら、ここまでの出来事を話したいな、なんて思った。

 いろんな人に会って、助けてもらって澪おねーさんと再会できたんだよって、そう言いたかったのだ。

 それにしても、


「……畳って気持ちいいなぁ」


 畳のわずかな柔らかさがクセになる。いや、決して柔らかいというわけでは無いのだが、硬いというわけでも無い。それが横になるのには最適だったのだ。

 全身から力を抜く。脱力していく感覚は、嫌いじゃなかった。

 このまま目を閉じれば、眠ってしまいそうだった。


「いけないいけない」


 眠ってしまってはダメだ。慎二さんに言われた事がある。

 わたしは体を起こして、部屋を後にする。殺風景な廊下を歩いて居間に入る。襖を閉めてから、室内を目線だけで観察した。

 慎二さんと美咲さんが、厨房にいた。慎二さんが冷蔵庫を漁り、美咲さんがトテトテと可愛らしい動きでまな板や包丁を出している。息がピッタリで、役割分担がしっかりできているように見える。


「……へぇ」


 わたしと澪おねーさんでは、あそこまで動きを同調できない。慎二さんが野菜を差し出せば、なにも言わずとも美咲さんが受け取って洗い、包丁で切っていく。まだ少し慣れていないのか、たどたどしい動きだ。

 美咲さんが切った野菜をボウルに入れ、慎二さんが無言で味付けしていく。

 阿吽の呼吸、というのだろうか。二人の動きは本当に息ぴったりだ。

 澪おねーさんと、あんなふうになりたいなぁ、と思った。

 それを観察していると、玄関の方でただいまーという声が聞こえた。例のご飯を食べに来る人だろうか。聞き覚えがある声だ。どこで聞いたのだろう。

 その答えをわたしはすぐに知ることになる。


「いやー、お腹すい……た」


 開けられた襖に振り向き、その人物が姿を現す。その人は一瞬動きを止め、わたしは自身が驚きで目を見開いたのを認める。


「……慎二?」


 その人物はギロリと慎二さんを睨む。


「あっ、と。これは──」


 と慎二さんが言い訳を探すように目線を泳がせ、


「……あとで説明するよ、輝子」


 そう言った。

 要するに、入ってきた人物は輝子さんだったという事。思いがけない再会に、わたしはしばし言葉を失った。


「お帰りなさい、輝子さん。その人は野宿していたから、慎二さんが気を利かせてここに泊めることになったんです」


 美咲さんが慎二さんの代わりに説明をする。

 ふーん、と輝子さんが鼻を鳴らし、


「そういう事ならいいけど」


 と納得してくれた。


「あとでじっくりお話ししましょうね、慎二」


 訂正、納得してくれていないみたいだ。

 美咲さんはそれ以上何も言わず、苦笑していた。

 慎二さんは渋い顔をして、はいと頷いた。

 この瞬間、空間の中で一番強いのは間違いなく輝子さんだった──。

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