第100話 朝
スマホの軽快な着信音で目を覚ます。寝袋から出た顔の表層がやや寒さを感じる。ぼやけた頭で頭の近くにあるスマホを確認し、応答する。
「もしもし」
言葉には力がない。頭が回っていないせいだ。欠伸も混じっていた。
『もしもし、えっちゃん?』
電話口からは、旧友の声がした。
「そうだけど。どうしたの、乃亜ちゃん」
『声が聞きたくなってさ。急にしばらく仕事を休む、なんて言ってそれっきりだったから』
そういえばそうだった、とわたしはぼんやりと思った。
『一度事情もしっかり訊いておこうと思ったからさ。どうして休んだの? てか今どこに居るのさ』
「今……木城市に居るけど」
『木城市? なんでそんなところに?』
スマホを肩で挟んで、寝袋のチャックを開ける。
「澪おねーさんがさらわれたから」
端的な事実だけを伝えた。すると、
『はぁ⁉』
耳がキーンとする。驚いて私はスマホを落してしまった。地面に落ちたスマホのスピーカーから、
『ちょちょちょ、みーたんがさらわれたって、どういう事⁉』
慌てた様子の乃亜ちゃんの声がキンキンと鳴っていた。
「落ち着いて。事実だけを口にしたらそうなる。で、今は澪おねーさんを助けるために木城市に戻っているってわけ」
寝袋から出て、スマホを拾い上げてそう言った。朝っぱらから元気だ、乃亜ちゃんは。
『そっか、そうなんだ。あーしにできる事とかって、なんかないかな』
「乃亜ちゃんに?」
その申し出はありがたい。けど、相手はヤクザだ。巻き込みたくない。それに――。
「正直な所ないかな。お店の方を任せたいぐらいで」
『……わかった。えっちゃんとみーたんの穴は、あーしが塞いでおくよ。でも、なんだってそんな事になってるのさ』
「それは……」
話せない。話せるわけがない。澪おねーさんが、ヤクザとのつながりを持っているなんて、そんな事を乃亜ちゃんに話していいわけがない。
もちろん、ヤクザと繋がっているからって差別するような子ではない事は理解している。それでも、澪おねーさんが望んで作った繋がりでない以上、わたしから話していい道理はどこにも存在しないのだ。だから話さない。
「ごめん、今は言えない」
『わかった。気になるけど、信じる。でも約束して。かならず無事に帰ってくるって。それから――二人で帰ってきてね』
その言葉を言い出すのに、乃亜ちゃんの中でどんな思いが渦巻いているのか。それはわからないけれど、彼女はそう言ってくれた。だから、
「うん、約束するよ」
わたしはそう言ったのだった。必ず澪おねーさんと一緒に戻る。その決意を新たにする。
『みんな心配しているから、それっぽい事言ってごまかしておくね。余計な心配を掛けさせたくないでしょ?』
「ありがとう」
乃亜ちゃんの心遣いに感謝する。本当に良い子だと、わたしはそう思った。
「じゃあ、そろそろ動き出さないと」
わたしはそう切り出した。乃亜ちゃんは、
『そっか、わかった。うん。じゃあ、またね』
と、名残惜しそうに言って電話を――切らなかった。どうやら向こうから切るつもりはないらしい。仕方がないので、わたしから電話を切ったのだった。
「さ、今日も頑張らないと」
テントのチャックを開く。朝日は既に登り切っていた――。
「いらっしゃい。大人一人ね」
で、真っ先に来ているのが銭湯とはどういうことなのだろうか。わたしは内心でため息を吐きながら、赤い暖簾をくぐった。
なぜここに来たのか。特に深い理由はない。お風呂に入りたいと思うのは、ごく自然な事だろう。
脱衣所で服を脱いで、浴室に入る。湯気が立つ、広いスペースに人はそんなにいなかった。朝なので当然だ。
この銭湯は朝からオープンしているお店だ。インターネットで見つけた。ずらりと並んだ流し場があって、その奥にタイルで出来た大きな浴槽がある。富士山の絵は残念ながら描いてなかった。
わたしは流し場の一番端っこに座り、シャワーを浴びる。テントの中で冷え切った体が、少しづつ解されていくのがわかる。
「あぁ、気持ちいい」
丁寧に髪を洗って、それから体も洗う。身を綺麗にすることは大事だ。売春をしていた時代から、どれほど時間に余裕がなくとも、お金に余裕がなくとも体を綺麗にすることだけは心がけていた。
というのも、汚い子を買うような物好きは滅多にいないためだ。身を綺麗にし、肌や髪の状態を常に意識することで、買われる確率を高めていた。
そして今は、いつ澪おねーさんと再会するかわからないために、体を綺麗にしておくのだ。
体まできれいに洗ったら、浴槽に移動する。肩まで浸かって、寝袋で眠っていたせいで生じた疲れを癒していく。眠っているのに疲れるというのもまた、変な話だなとかぼんやりと思う。
さて、これからどうしようか。天城家の情報をどうにかして手に入れたいけれど、どうやって手に入れればいいのか。
やっぱり八方ふさがりである事に違いはなく、どうすればいいのかはわからない。だけどとりあえず――。
「やっぱりお風呂っていいなぁ」
そう思ったのだった。
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