第47話 後輩の話
『先輩さんから話を聞きました。彼女には仕事を辞めてもらいます』
というチャットが届いたのは、昼休憩終わり頃の時間だった。
え? という間抜けな声が漏れる。誰が、辞めるって?
先輩がここを辞める? 悪い冗談だろう。うん、きっとそうに違いない。
『冗談だよね、それ』
『本気です。これ以上は彼女が壊れちゃう。今から退職代行サービスに依頼します』
何を言っているんだ。そうしたら先輩の生活はどうなってしまうんだ。
収入がなければ生きていけない。エリーとてそれを理解していないわけではないだろうに。
子供が、自分の判断だけで他者の人生を動かそうとしている。だとしたら止めるべきだ。
『現状維持がいい事もあるって知ってる?』
『現状維持だと澪おねーさん会社に殺されるでしょ!』
チャットの文字だけでわかる。エリーはあたしのチャットに怒りを覚えていると。
『あたしはあたしで、パワハラの証拠を上に出しはした。後は処分が下されるのを待つしかない』
そうすれば、環境も変わる。先輩の仕事は変わらないかもしれないけど、それでもマシにはなるはずだ。それがあたしの考えだった。
『待っている間に死んだらどうするの! とにかく、仕事は辞めさせるから』
『待って、一度話し合おう?』
『……今の澪おねーさんを放っておけません。話し合いには行けないかな』
『じゃあ、チャットでもいいから』
既読がつかなくなった。彼女にはこれ以上の話し合いをする気はないという事だろうか。
……先輩が辞める。なら、あたしはどうするべきか。
元々この会社に執着する理由はない。先輩がいる場所があたしの居場所だと決めていたから。
なら、決まりかな。あたしは机から封筒を取り出して、退職願と書く。それから、A4サイズの紙に、退職したいという旨の文言を書いていく。
最後に、書き終えた紙を封筒に入れる。
「課長、今いいですか?」
それから、課長のところに行った。スマホの録音機能をオンにして、ポケットにしまうのも忘れない。
「お、どうかしたのかね?」
「はい、少し相談が……」
と言いながら、課長の机に退職願を置く。
「この職場を辞めたいと思いまして」
「なっ、ば、バカな事を言うではないぞ。第一、辞めたらどれほどの人に迷惑がかかると思っているんだ」
「迷惑、じゃなくてセクハラする相手が居なくなる事が嫌なんでしょう? 冗談じゃないですよ」
「なっ、セクハラだと?」
「えぇ。不必要なスキンシップ、不快でしたので」
「あれは、可愛がってやっただけじゃないか」
醜悪なエゴを剥き出しにして、課長は反論する。これ以上の会話は無意味か、と判断する。
「とにかく、そういうわけですので。ちなみに録音していますので、拒絶はできませんよ」
あたしは踵を返す。背後からは、悔しそうな課長の唸り声。
あー、スッキリした。こんな職場から離れられることが嬉しい。先輩の連絡先は把握しているから、彼女と一緒にいられないのならこの職場にいる意味がない。個人的に連絡を取ればいいのだから。
引き継ぎはしっかりとやる。仲のいい同僚は数人いるから。彼らのためにも、そこはしっかりとやらなければ──。
あたしが同性愛者だという認識を持ったのは、先輩に出会って少ししてからのことだった。いささか生々しい話になるが、当時のあたしには性欲を向ける対象がいなかった。
周囲の女子たちは、女子校で男子生徒の目がないという事もあって、まぁ割とオープンにどんなイケメンアイドルが好きだとか、その彼に抱かれたいだとか言っていた。それが身近な環境において、あたしには男性アイドルや俳優、あるいは二次元の男に興味を抱けなかった。
それが異常だとは思わなかった。同級生の中には、あたしと同じように異性に興味がないって人が何人かいたから。
だから、今はまだその時じゃないと思っていた。
だけど性欲は確かにあって、それを発散することはあった。誰に抱かれるとか、そんな妄想はしなかったけど。
そんなあたしが、先輩に出会った事で彼女に恋をした。
初めて、誰かに抱かれる想像をしながらシた。
わずか一瞬、電車の中で一緒になっただけ。席を譲られただけであたしは先輩のことが好きになっていた。その時は同性である事を気にしなかったけど、後からあたしってそうなんだと気がついた。
でも、気がついたからなんだというのか。あたしは先輩のことが好きで好きで、毎日彼女を想った。わずか一瞬出会った彼女の横顔や、仕草。スーツ越しでもわかる体型。それら全てを毎日──それこそ毎秒でも──思い出し、忘れないようにしていた。
一度自分が同性愛者だと気がつくと、同級生や先輩後輩が魅力的に見える──かと思えばそんな事はなく、性の対象として先輩以外を見る事はなかった。
ただ、隠さなきゃとは思った。だって、バレたらどう思われるか。漠然とそんな不安を抱いていたのだ。
それから数年後、あたしは先輩と再会した。一緒に働くようになって、あたしはどんどんどんどん彼女のことが好きになっていった。
毎日先輩を見つめた。彼女の挙動その全てを、記憶に焼き付けようとした。流石にそれは無理だったけど、癖を覚えるぐらいはしてみせた。
あくびをする時にどっちの手を口に当てるか、とかそういう細かいところまで覚えた。
恋をするというのは、頭の中がその人で埋め尽くされるような錯覚を覚えるものだった。
先輩と一緒に働くのは楽しかった。そりゃあ、彼女が怒鳴られたりしているのはいい気分じゃなかったけど、近くで見ていられるだけで嬉しかった。
それも当然だ。あたしの青春、彼女を知ってからの全てにおいて、彼女を想うという事は最優先タスクだったから。
だけど、先輩にこの思いを伝える度胸はなかった。
エリーと出会ったのは、夏の日だった。繁華街の、行きつけのバー──店主さんに色々相談したりもしていた──から出た時の事。
「わたしを買いませんか?」
と、通りを歩く人に自分を売り込んでいる彼女を見かけたのだ。その日の釣果は全然だったらしく、焦っているように見えた。
その日は、先輩に想いを打ち明けられないでいる切なさが、いつもより多い日だった。
だから、誰かを抱けばこの切なさもマシになるかと思ってしまったのだ。
「ねぇ、君の事買ってもいい?」
あたしは見知らぬ売春少女に声をかける。
「え? あー、女の人、だよね?」
彼女は怪訝な表情で問いかける。
「そうだけど……ダメ?」
「ダメじゃないけど、わたし女の人とセックスした事ないから、上手にやれないかもだけどいい?」
「あたしも初めてだよ。というか、処女なんだよ」
「そっか……うん、いいよ。わたしは──わたしは松本……エリー」
彼女は一瞬言葉をとぎらせる。おそらくは言い慣れない名前、偽名なのだろう。売春をするなら最低限必要な処置だと思う。
それを知ろうとは思わなかった。
「あたしは大橋かな子。好きに呼んで」
「じゃあ、かな子おねーさんだね」
あたしはエリーに連れられて、ホテルに向かう。
ホテルの部屋で、あたしとエリーは行為に及ぶ。満たされるのだろう、と漠然だけどそう思っていた。
「エリー、あたし、もう」
だけど、満たされなかった。誰かに抱かれても、満足できなかった。
もし相手が先輩なら?
エリーと行為に及びながら、あたしは頭の中で先輩を思い浮かべていた。
それで完全にわかった。あたしは先輩が欲しい。先輩を抱いて、抱かれたい。先輩の全てを手に入れたい。先輩に包まれたいのだと。
だから、先輩がいない場所にいる時間はない。あたしは先輩がいる場所にしかいられないのだから──。
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