第46話 報復(2)

 報復計画が進行する。

 彼らの組織が崩壊するかも。

 ああ、それでもわたしはこの報復を──。




「お弁当は持った。水筒も持った。澪おねーさん、行けそう?」


 わたしは一通り準備を終わらせて、澪おねーさんに最終確認をする。


「う、うん……」


 相変わらず、彼女は元気がない。昨日の今日だ、無理もない。

 ただ、行くとは言っているのだ。ならばその意思を尊重しよう。

 わたしは彼女の手を取る。柔らかな手を感じる。鼓動は──平常だ。いつもの澪おねーさんなら、少なからず心拍数の上昇が確認されるのだけど。やはり気落ちしている。

 本当は元気を出して欲しいのだけど、それを強要するのは違うと思う。第一、今の澪おねーさんにそれを強要すれば、それが引き金になりかねない。

 もう、身近にいる人が自死するのは見たくない。

 瞼を閉じれば、瞳に映るのはかつてのトラウマ。首元に青い線を残した、母親の姿。

 今でも夢に見る時がある。

 あの光景は二度と見たくない。だから、無理に元気を出せとはいえない。


「ほら、行くよ」


 おぼつかない足取りで、澪おねーさんはわたしに追従する。その姿が痛々しく感じられたのは事実だ。

 彼女が今本当に必要としていることは、多分お花見じゃない。心療内科の診察だ。ただ、病院に行くためにも気力が必要だ。

 結果、今の澪おねーさんは病院には行けない。そこに行くための気力がないからだ。

 わたしは澪おねーさんを引っ張るように駅まで歩く。切符を買って、改札を通る。澪おねーさんにはICカードを使ってもらった。

 ホームに降りる。万が一にも飛び込まないように、線路近くには並ばずに壁際に陣取る。手をしっかりと握って、どこかに行かないようにする事も忘れない。


「……ねぇ、エリナちゃん」

「どうしたの、澪おねーさん」


 声にも覇気がない。そんな声をしないで、そんな顔をしないでと願う。願いは届かないけれど。


「……どうして生きているのかな、私」

「生きる理由、かぁ。神がどうこう言うつもりはないけど、そうだね……」


 慎重に言葉を選ぶ。こう言う時の人間は、何をトリガーに取り返しのつかない行動をとるかわからないから。


「生きる意味、それはわからないけど、生きてきた意味ならわかるよ」

「意味?」

「うん。だって、今まで生きてきたからわたしたちが出会えたんだよ」

「……そう、だね。確かにそうだけど……ごめんね、なんて言えばいいか……」

「無理に何か話さなくてもいいよ。辛くなるだけだから」


 わたしがそう言うと、澪おねーさんは少し安心したような表情を見せた。


「……ありがとう、エリナちゃん」


 会話が途切れる。電車が来るまで、二人で並んで立っていた。




「ほら、座って」


 公園に着いたわたしは、人通りの少ない場所を選んで澪おねーさんを座らせる。


「綺麗だよね、桜」


 澪おねーさんが虚な目で桜を見上げる。少し葉桜になりつつある桜は、むしろ葉がいいアクセントになっていてより綺麗に見えた。


「……ごめんね、気を使わせちゃって」


 電車に乗ってここまで来るまで、一言も発さなかった澪おねーさんが言葉を発した。


「ううん、大丈夫だよ。困った時はお互い様。澪おねーさんだって、わたしが辛い時に助けてくれたでしょ?」

「そうかもしれないけど……」


 わたしは立ち上がって、澪おねーさんの前に出る。振り返って彼女の顔を手で挟みこむ。


「ふぇ、ふぇりふぁひゃん?」

「気にしないの。澪おねーさんさ、少し自分を追い詰めすぎだよ。そこの屋台でビール売ってるから、買ってきて」


 澪おねーさんに硬貨を握らせる。


「え?」

「お酒飲んで、嫌な事全部吐き出しちゃうんだよ。全部聞いてあげるからさ」

「……でも」

「でもじゃない。ほら、行ってきて」


 彼女を立ち上がらせて、背中を押す。本当はわたしが買いに行って、有無を言わさず渡した方がいいんだろうけど、未成年だからそれはできない。

 澪おねーさんを見守る。万が一なにか、想定外の動きをした時のために走り出す準備はしておいた。

 どうやら杞憂だったらしい。彼女はプラカップに入れられたビールを手に戻ってきたから。


「よくできました。さ、飲んで飲んで」


 澪おねーさんを座らせて、飲むように促す。彼女は少しだけ口をつけて、


「ふぅ……美味しい」


 そう呟いた。その時の彼女は、少しだけ表情を緩ませて、わたしはそれに安心感を覚えたのだった。


「んぐっ、ん、ん──」


 それから澪おねーさんは、何回かに分けてビールを飲み干した。


「はぁ──ようやく楽になったわ」

「そっか、よかった」


 まだ憂いを帯びた表情で、だけど彼女は確かに顔を綻ばせた。うん、とりあえず最悪な状態は脱したかな。


「ほら、いっぱい愚痴あるんでしょ? 全部聞くから」

「ありがとう……課長がさ、全部の仕事私に押し付けてくるの。それで、何でもかんでも私のせいにして、自分が零したコーヒーのせいで読めなくなった書類まで、私が悪いって言うんだよ」


 それから語られる彼女の言葉に、私は絶句した。

 サービス残業当たり前、管理職の仕事の肩代わり、パワハラと暴言。人らしい扱いを受けていないことは明白だった。

 ただ、それらの中には好都合なものもあった。


「もう辞めちゃいなよ、そんな職場。保険とかそういうのはわたしが手続きするからさ。雇用保険とか使えば、ある程度は食べていけるし、わたしもアルバイトしてお金入れるから、もう辞めてよ」


 管理職の肩代わりまでさせられているということは、彼女が引き継ぎをせずに辞めた場合、会社の業務が瓦解する可能性がある。


「でも、私が辞めたらみんなに迷惑が……それに、退職届出しても……」

「それに関しては大丈夫。昨日澪おねーさんが寝た後で色々調べたんだよ。退職代行サービスを使って、有給も全部使っちゃってさ。それから弁護士に相談して、パワハラの件もしっかり償ってもらおう?」

「……でも」

「このままでいいの? このまま会社に、課長に殺されるでいいの?」

「殺されるって、そんな大袈裟な──」

「大袈裟じゃない!」


 そう、それはあり得る事だし、目の前に起きかけていた出来事なのだ。それを大袈裟と切って捨てようとした澪おねーさんにイラついて、つい怒鳴っていた。


「澪おねーさん、自分で気がついていないの? 殺されるところだったんだよ。自殺だろうが、その原因は会社にあるんだから殺されるも同義だよ!」

「──っ!」


 ようやく気がついた、と彼女は目を見開く。それから、


「……正直、怖い。辞めるってなったら何言われるか。でも、そうだよね。ようやく目が覚めた。私、辞めるよ」

「そう言ってくれて嬉しい」


 これでわたしの報復は最終段階だ。彼女を助けて、会社も瓦解させる。特に課長は、絶対に赦しはしない。

 って、赦すかどうかはわたしが決める事じゃないか。

 コテン、と澪おねーさんが肩の頭を預けた。


「ごめんね、ちょっとだけこうしてていい?」

「もちろんだよ」


 もう一度桜を見上げる。これからのこと、それこそ色々あるけれど、今はこの桜が色鮮やかに感じられた。


「……あれ」


 でもなんでわたし、澪おねーさんのためにここまでやろうと思ったんだろう。後悔とかそういうのじゃなく、純粋な疑問としてそう思った。

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