第48話 余裕

 エリナが言ったように仕事を辞めて、もうすぐ半月。四月の上旬が終わりを告げようか、それとも中旬がおはー、とか言いながら現れようかという時期。

 春の陽気が窓から刺し染める。部屋の中には一つのベッドと一つの布団。布団は畳まれ、朝食の匂いが部屋に充満する。

 私はまだ職場に所属している扱いらしい。とはいえ有給も取得して、後は正式に退職するのを待つだけだ。


「んっ──ふはぁ」


 上体を起こして、寝ている間に硬くなった体をほぐす。


「あー、よく寝た」

「おはよ、澪おねーさん」


 コンロのところに立っているエリナが、振り向いて私に挨拶してくれる。私もおはよう、と返してベッドを降りる。

 しかし、この部屋は手狭だなと感じた。せっかく仕事を辞めて、これからゆっくり休もうというのに、この狭さはちょっと、と思った。


「引っ越すかぁ」

「え?」

「いや、二人で暮らすには狭いじゃない、ここ。引っ越そうかなって」


 幸いなことに、お金はそれなりにある。敷金礼金を払って──まあこの辺の立地だと家賃が高いので、移動は必要だろうけど──数年は住めるだろう。その間に職探しをすればいい。


「なるほど、確かにここ狭いもんね」

「そうそう。エリナちゃんだって年頃の女の子なんだし、自室も欲しいでしょ?」

「えっ、自室!」


 エリナが飛び上がりそうな勢いで喜び出した。


「うん、欲しい!」


 タタタ、と駆け寄ってくる。その仕草が、おやつを用意した時の犬のように見えた。


「じゃあ、今日は不動産屋に行きましょう。いい?」

「うん、いいよ!」


 エリナが返事をして料理に戻る。

 ここ半月、私たちはほぼ毎日どこかに出掛けている。近場の公園とか、お金のかからないところが主だけど。

 エリナ曰く、


『リフレッシュになるでしょ』


 という事らしい。もちろん無理にではなく、休みたいといえば休ませてくれる。ありがたい事だ。

 この生活に変わってから二週間、精神的にもだいぶ楽になってきた気がする。


「ほらほら、顔洗ってきて。朝ごはんにしよ!」

「えぇ、そうね」


 それが私たちの新しい日々だった。




 朝イチで不動産屋に行き、何軒か内見に回って引っ越し先を決めた。結果、今の住宅地より少し繁華街から離れた場所にある、築十五年程度のアパートにすることにした。2LDKの部屋だ。

 そして私たちは喫茶店に入る。私はコーヒー、エリナはココアを注文する。程なくしてそれらが運ばれてきた。


「いやー、早々に決まってよかったね」


 ココアを啜って、エリナがそう言った。


「そうね。洗面と浴室が別っていうのもいいわよね」

「それ! 今まで大変だったもんね。澪おねーさん、よくあんな部屋でずっと暮らしてたよ」

「余裕がなかったから……ありがとう、エリナちゃんのおかげで引っ越すぐらいの余裕ができたわ」


 そう、だいぶ余裕ができたおかげで、今後のことを考えたり、そのために行動する気力が戻ってきたのだ。これほどの気力、今までの人生であっただろうか、とも思う。

 店内に流れる音楽が耳に入る。穏やかな曲だ。そんな経験、今までしただろうか。

 三十年弱生きてきて、初めてここまで平穏な状態になった。目の前で起こること、その全てが優しく思えた。



 ぼんやりと、目の前の少女を見つめる。



「どうかした?」

「ううん、なんでもない」


 彼女を見つめると、不思議な感情が湧き起こる。性欲由来の感情とは違う、何か特別だと思える感情が。

 穏やかな表情で、彼女もこちらを見つめている。視線が交差して、私はつい目を逸らす。


「なんか、ようやく一緒の時間を共有してるって感じだね」


 確かにそうかもしれない。私がエリナと出会った時から今まで、ある種のすれ違いばかりだったような気がする。というか、どちらかの精神が常に不安定だったような、そんな感じだろうか。

 だからこそ、この時間が愛おしい。互いがゆとりある状態で向かい合っている、この日々の隙間があまりにも尊いものに思えた。


「これからどうしよっか」

「うーん、そうだね。これからかぁ」


 解決しなくちゃいけない問題はまだ残っている。いずれは新しい仕事を見つけなくちゃいけない。生活がガラリと変わるだろうし、そうしたらそれに適応していかなければならない。

 生活が変わるといえば、私は心療内科に通い始めた。エリナの提案で、次の仕事を探す前に一度行ったほうがいいと言われたのだ。


「ま、とりあえず貯金もあるし、のんびりしようかな」

「そうだね、それがいいよ。澪おねーさんは一度休んで、それから好きなことをすればいい」


 エリナが肯定してくれた。

 好きな事、か……考えたこともなかった。それを考える余裕が生まれただけでも、仕事を辞めた意味はあったと思う。

 少し休んだら考えよう。これからの人生をどうするのかを──。




 ──Memory two【The Second】 END




 ──Next memory preview




 仕事を辞め、自由になった澪。

 エリナの前に現れた旧友。

 もつれていく感情と人々の糸。

 そして、物語は新章に突入する。




 ──Next Memory【The Third】

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