第44話 憔悴

 乃亜ちゃんとお花見した次の土曜日。わたしはいつものように料理をして澪おねーさんを待っていた。

 お味噌汁はあと味噌を溶かすだけ。ご飯も炊きあがって、今は保温中。魚も焼き上がっている。

 だいたい澪おねーさんの帰ってくる時間が把握できたから、それに合わせて下準備をするようになった。

 時計を見ると時刻は八時半、あと三十分ほどで帰ってくるだろうか。それとも今日は十時過ぎだろうか。

 ぼんやりと時が過ぎるのを待つ。早く帰ってこないかなぁ、と思いながら。

 まるで恋人が帰ってくるのを待つウブな少女だ、と自嘲気味に笑う。澪おねーさんとは別にそういう関係ではないのだけど。

 そういえば、わたしは誰かに恋をしたことがないなぁと気がついた。

 恋。少女漫画や恋愛映画で描かれるような、素敵なラブロマンス。夜景の綺麗な公園でデートしたり、遊園地で遊んだり、きっと、告白の場所は校庭の裏だったり屋上だったりするんだろうなぁ。桜の木の下も定番だよね。

 そういう物語に憧れないわけではない。そりゃあ、わたしだって年頃の女の子だしね。

 ……でも、今のわたしには好きな人がいないから。少なくとも自覚する範囲内では。そもそも、純潔をとっくの昔にお金に変えたわたしには、そんな純粋な恋愛なんて不可能だ。


「羨ましいなぁ」


 乃亜ちゃんが羨ましかった。好きな人がいると言った彼女は、あまりに純粋に恋愛していたように見えたから。それはわたしには二度と手に入らないモノだった。

 わたしは人の、恋愛感情の先にあるモノを理解している。その先にある性欲と、行為を知っている。

 だから、わたしには純愛なんて望むべくもないし、望む権利すらない。

 生きるためだと、自分に言い聞かせてきたけど、


「なんで、あんなことしちゃったんだろう……」


 時々そう思う。思わざるを得ないのだ。




 十時直前、部屋の鍵が開けられた。帰ってきたと思って、わたしは澪おねーさんを出迎える。ちょっとウキウキしているのは、自分でもなんでだろうと思っている。


「おかえり、ご飯今用意するから──」


 そこまで言って、わたしは息を呑む。

 今日の彼女は、様子がおかしかった。まるで最初にあった時のような、死んでしまいそうな雰囲気を纏っていた。言葉にするのなら、憔悴している、だろうか。

 彼女はふらふらとわたしのところまで来ると、わたしの方に倒れ込む。慌てて受け止めると、彼女は強くわたしを抱きしめる。圧迫されて少し痛かった。


「澪おねーさん?」

「エリナ、ちゃん……わた、わたし……」

「辛いこと、あったんだね」


 わたしは肩に乗っかった澪おねーさんの頭に手を乗せる。すると、服越しに暖かなものが染み込んできた。泣いているのだろう。


「……もう、嫌だよ……死んじゃいたい」


 それは嫌だ。彼女が死ぬのは嫌だ。だから、


「そんなこと言わないで。話なら聞くから」

「うん……」


 こんなに弱った澪おねーさんは久しぶりに見た。病室の時以来だろうか。


「ね、とりあえず中に入ろ。ここは冷えるよ」


 虚ろな返事をする澪おねーさんを、わたしは半ば強引に居室まで引っ張る。スーツの裾に、赤い染みが出来ているのが見えて、わたしは胸が締め付けられるような思いに駆られた。

 あぁ、またなのか。またそうしたのか、彼女は。


「ほら、座って。ホットミルク、用意するね」


 わたしは冷蔵庫から牛乳を取り出して、空いていた鍋に入れる。お味噌汁の鍋をどけて、火に掛ける。その間に、ハンカチを取り出して、


「左腕、出して」


 まるで傀儡のように言う事を聞く澪おねーさん。覇気が感じられず、意志も感じられない。

 彼女の肌に、赤い血がベッタリと付着していて、今なお出血が認められた。わたしは何枚かのティッシュペーパーで血液を拭きとり、腕にハンカチを巻きつける。白い布が赤く染まっていく。どんどん汚染していくそれは、彼女が自身を傷付けた証明に他ならないだろう。

 ハンカチを強く縛る。そうしながらチラリと彼女の顔を見ると、虚ろな目で何をしているんだろう、と疑問符を浮かべているようだった。

 あぁ、やっぱり気が付いていないんだ。彼女は自分がやっていることに、気が付いていない。



 彼女は、自傷行為を無意識下で行っている。



 その事実が、胸に刺さる。


「これでよし。絶対に外さないでね」


 わたしはコンロのところに行き、マグカップにホットミルクを注ぐ。温度はたぶん適温だ。砂糖を一匙、リラックスする秘訣だと聞いた。


「はい、温まるよ」


 澪おねーさんの前に置く。彼女はぼんやりとそれを眺めて、


「今日、言われたの。死ねって、死んで償えって。私、何もしていないのに」

「……そっか、そうだったんだね」


 ストレートな言葉というのは、時に最も人を追い詰める。今の彼女のように、的確に心の奥底に染み込んで、取り返しがつかないほどに追い込んでしまうのだ。


「もう、なんのために生きているのか、わからない。わからないよ」


 わたしは澪おねーさんを優しく抱きしめた。

 そんな事言わないで欲しい。なんのために生きているのかなんて、そりゃあわたしにもわからないけど、だけどそれを口にしてほしくなかった。哲学としての生きる意味じゃない、死を願う生きる意味を見失ったなんて。


「澪おねーさん、わたしは生きていて欲しいよ」

「なんで……こんな私に、何を望んでるの……」

「傍に居て。わたしも澪おねーさんの傍に居るから」

「なんで、そんな事言ってくれるの……」


 なんで、だって? そんなの決まってる。


「澪おねーさんと一緒に生きていきたいから」


 わたしにとって、とっくに澪おねーさんは大きな存在になっていた。だから、わたしは澪おねーさんから離れたくない。


「私、生きている価値なんてないんだよ?」

「そんな事ないよ。澪おねーさんはさ、優しいじゃん。それだけでいいんだよ」


 優しいから、図太い生き方が出来ない。だからそうやって自分を追い込んでしまう。だけど、それは間違いだ。

 彼女は追い込まれるべき人間じゃない。追い込まなければならない人間は、彼女を追い詰めた人物に他ならない。


「明日、仕事休んで。余裕があったらお花見に行こ」


 頷いてくれるか、それが不安だった。


「おは、なみ?」

「そう、お花見。お花見行って、嫌な事忘れちゃうんだよ。お酒も飲んじゃおうよ」

「……そう、ね。行くわ」

「それでよし」


 抱きしめていた腕を離す。


「ミルク、冷めちゃうよ」

「……ええ、いただくわ」


 彼女はマグカップに口を付ける。ゆっくりと、時間をかけて飲み干していった。

 その時間は、わたしにとってある種の苦痛が伴う時間だった。こんなに憔悴した澪おねーさんは見たくなかったから。


「飲んだらもう寝て。眠れないなら、子守歌歌ってあげるから」


 マグカップを置いた澪おねーさんを、ベッドに誘導する。まるで介護だ、と一瞬思ってしまった自分が嫌だった。

 ベッドに横になった彼女は、目を閉じる。


「おやすみ、澪おねーさん」


 返事はない。その余裕すらないのだろう。わたしは彼女の頭に手を乗せて、優しく撫でる。

 少しして、彼女は寝息を立て始めた。とりあえず一安心だ。眠っている間は自傷や自殺に至る事はないだろうし。


「……さて」


 わたしはスマホを取り出した。

 先日の病院の出来事で、彼女とは共通の知り合いがいるという事を知っている。


『やっほ、この前ぶり。実は、この前の先輩さんから連絡があって、会社で酷い事言われたって泣いていたんだけどさ、何があったか知ってる?』


 わたしはかな子おねーさんに連絡を取る。


『もし何か知っている事があって、わたしにどうにかできる事があるんだったら教えて欲しい。知り合いが辛そうにしてるのは嫌だから』


 同居していることは隠して、かな子おねーさんを巻き込んで報復を始めよう。わたしを救ってくれた、雨宮澪という人物を今度はわたしが助けるのだ――。

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