第42話 同性愛者

 カフェインのせいで、三時ぐらいに目が覚めた。わたしの寝袋や布団とは違う匂いがした。覚醒しきっていない頭で、なぜこんな匂いがするのかを考える。

 ……あ、思い出した。

 わたし、澪おねーさんのベッドで寝ちゃったんだ。夜ご飯の準備もせずに。

 澪おねーさんのベッド。それを意識した途端、顔が熱くなるのがわかった。

 恥ずかしくなり、慌ててベッドの外に出る。澪おねーさんの匂いに包まれている現状が、今はすごく気恥ずかしかった。

 部屋は暗かった。澪おねーさんはちゃんとご飯を食べたのだろうか、どこで寝ているのだろうか。そんな事を考えながら、暗闇に目が慣れるのを待つ。カーテンから差し込む外の光が、かろうじてわたしの視界を確保してくれた。

 ある程度慣れて、動けるかなと判断する。まずは澪おねーさんを探すところから。

 これはすぐにわかった。わたしの布団が盛り上がっていたから。

 ……澪おねーさんがわたしの布団を使っている。その事実は、わたしが澪おねーさんのベッドを使っていたという事実以上に心をかき乱すものだった。

 目を逸らすと、机の上にお弁当が置いてあるのに気がついた。コンビニの、ごくシンプルなお弁当だ。隣にメモ書きが置かれていて、


『エリナちゃんへ。起きたら食べて』


 と書かれていた。

 帰ってきてからわざわざ買いに行ったのだろう。罪悪感が湧き出てきた。それは、役目を放棄した罪悪感だった。

 くぅ、と小さくお腹がなる。


「食べよ」


 お弁当を開けて、食事を開始する。数時間後には朝食なのだけど、空腹には抗えなかったのだ。




 澪おねーさんに、ベッドを使ってしまったことや食事を用意しなかった事を謝罪したのち、わたしは家を出た。今日は乃亜ちゃんとお花見だ。

 待ち合わせは繁華街から近い駅。澪おねーさんが出社の時に使う駅だ。そこの改札前で待つ。


「あっ、いた! ヤッホー、待った?」


 繁華街の方から、乃亜ちゃんが走ってくる。顔の横で手を振る仕草が、まさに現代の子って感じだ。


「ううん、待ってないよ」


 わたしは微笑む。いかにも楽しみだったというような表情を作った。

 だけど、やっぱり心はワクワクしていなかった。


「そっか。あーしから誘っておいて待たせましたーって、ちょっとカッコつかないもんね。うんうん、よかった」

「そうだね。で、どこに行くの?」

「お花見の名所。調べてあるんだ」


 乃亜ちゃんはスマホを改札にタッチして、中に入る──っと、わたしはどこまで買えばいいのだろうか。


「あれ、もしかしてえっちゃんIC持ってない系? ごめんごめん、片道五百円の切符ね」


 改札越しに、乃亜ちゃんがそう言った。


「うん、わかった」


 切符販売機で切符を買い、改札の中へ。乃亜ちゃんに続いてホームに移動し、電車を待つ。


「えっちゃんはさ、中学ん時とかってどうしてた?」

「中学? うーん、勉強ばっかだったかなぁ」

「好きな人とかいなかったの?」

「す⁉︎」


 突然何を言っているんだ、乃亜ちゃんは。


「へぇ、そんな反応をするってことはいたんだ、好きな人」

「べ、別にそういうわけじゃ……」


 事実、今まで人を好きになったことはない。ただ、そういう反応を返したのは、その手の話題に耐性がないから。それ以上の理由はない。

 ……売春相手に訊かれたら、あなたが好きだよで乗り切っていたし。


「そ、そういう乃亜ちゃんはどうなの?」

「あーし? あーしは好きな人いるよ」


 彼女はなんてことないようにそう言った。


「どんな人なの?」

「どんな、かぁ。優しい人かな。だけど強い人。あーしがギャルになったのも、その人の影響だし」


 どんな人なんだろう。あのおとなしかった乃亜ちゃんがギャルになるような影響を与える人って。


「影響?」

「うん。あーしって昔人見知りしてたじゃんね。だけどその人とは平気で話せて。その人って、すごい明るい人でさ。ああなりたいなぁって思ったんだ。だからギャルになったっていうか、うん。形から入ってみたって感じかな」


 いささか飛躍している気がするけど、彼女の中で何かしらの筋は通っているのだろう。語りに迷いがないのがその証拠だと思う。

 しかし彼女が好きな人って誰なんだろう。やっぱ同級生とかなのかな。


「告白とかってしないの?」

「告白? うーん、どうだろう。オーケーしてくれるかどうか、わかんないからなぁ」

「そうなの? 乃亜ちゃん可愛いし、付き合えるかもよ」

「そうじゃなくてさ……その相手って女の子なんだよね」


 彼女はそれがなんてことないように言った。


「だから、相手の子があーしと一緒じゃなくっちゃ、ね。無理強いするのも違うし」


 電車がホーム入る。


「だからね、言えないんだ」


 彼女はそれを受け入れていると言わんばかりに、からりとした言い方をした。

 彼女は電車に乗り込んだ。わたしもそれに続く。


「それって、辛くない?」


 好きな人がいないわたしにはわからないけど、好きだと伝えられないことって辛くないのかなと思う。


「それは、まぁ……けど、あーしらのような人って少数派じゃんね」

「そうかもしれないけど、相手の人だって同じかもしれないよ」

「そう……だね。うん、ありがとう」


 乃亜ちゃんはそう言って窓の外を見る。流れる車窓を、わたし達は置いていく。


「えっちゃんはさ、気持ち悪いとか言わないんだね」


 ポツリと、乃亜ちゃんがわたしに問いかける。


「なんで?」

「だって、ほら……少数派なわけだし……」

「そうかもしれないけどさ、好きって気持ちは止められないでしょ? なら仕方がないと思うけど。少なくともわたしはその気持ちを否定しないよ」

「そっか……ありがと、えっちゃん」


 乃亜ちゃんは嬉しそうに微笑む。


「えっちゃんにそう言ってもらえるとすっごく嬉しい。あーしの初めての友達だからさ、否定されたら、ヘコむ」

「もう、もっと友達を信用してよ」

「うん、そうだね。ゴメン!」


 乃亜ちゃんは手を合わせて、頭を下げる。まるで拝んでいるようだ、と思った。

 その姿を見ながら、ふと思う。

 会話をするのは楽しい。だけど、やっぱりワクワクしない。なんでかはわからないけど、全然ワクワクしないのだ。

 昔とは違う、という事を否応なしに認識させられてしまう。わたしは、過去には戻れないのだという事を。

 あの頃は、乃亜ちゃんと一緒に遊んでいてワクワクしたのに、こうしていざ一緒に遊びにいくとなっても、あの時の高揚感がない。

 澪おねーさんと一緒なら、あんなにも高揚するのになぁ。その違いってなんなのかがわからず、わたしは困惑するばかりだった。

 電車は走る。過去を置き去りにするかのように。

 そして同時に、わたしと乃亜ちゃんの間にもどうしようもない時の隔たりがあったのだ。

 わたしと彼女の関係性は、断絶された時から止まっていた。だけど、それぞれ今に生きていて、わたしは過去と今を直結できていないのだろう。

 ……寂しいな、それは。

 わたしは本心からそう思った。

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