第41話 smell

 で、朝である。カーテン越しの日差しで朝になったと気がついた。

 そう、気がついたのだ。目を覚ました、ではなく。つまりは、


「……一睡もできなかった」


 頭がガンガンする。眠りが極めて足りない証拠だ。

 理由は明白で、


「っあ……」


 昨夜の蛮行が原因だ。

 唇に触れる。そこに澪おねーさんの唇の感覚はない。

 私は布団から這い出る。ベッドの方に目を向けると、澪おねーさんは変わらず無防備な寝顔を見せていた。

 本当に無防備な人だ、澪おねーさんは。


「ほんと、なんでなんだろうなぁ」


 わたしと澪おねーさんは、初対面レベルの知り合いでしかない。少なくとも、出会ってからの日数で言えば。

 そんなわたしを家に置き、こんなに無防備な寝顔を晒している。わたしの事を信用しているのだろうけど、それにしたって無防備すぎる。

 たとえば、わたしが彼女の財布や通帳などを持ってここから逃げる可能性。

 たとえば、わたしが彼女に暴行する可能性。

 たとえば、わたしが彼女を誘拐犯に仕立て上げる可能性。

 それらのリスクを考えていないはずがない。考えていないのだとしたら、それはただのバカだ。こんな言い方はしたくはないけど。

 ちなみにわたしが澪おねーさんに無防備な姿を晒しているのは、彼女がわたしを襲えないと知っているから。彼女はあまりにも純心で、間接キスで狼狽えてるほど。だから、襲う度胸なんてないんだと理解している。


「くぁ……」


 それにしても眠い。わたしは浴室に移動して、パジャマを脱いで顔を洗う。冷たい水で思考をスッキリさせようと思ったけど、寝れていない頭はぼんやりしすぎていて、その程度では覚醒してくれなかった。

 洗濯物も溜まっているし、昼寝する時間はなさそうかな。そう思いながら着替え、キッチンのところに立つ。お米を洗って浸水、その間におかずの用意をする。

 自分で言うのもなんだけど、だいぶ成長したと思う。まぁ、基本的な食事しか作れないんだけど。

 さて、一日が始まる。眠たいけど、なんとか頑張ろう──。




 澪おねーさんを見送って、服をカゴに詰める。家を出て、最寄りのコインランドリーに。洗濯機を回している間に、施設併設の自動販売機でカフェオレを買って、一気に煽る。甘ったるい味が口の中に広がった。

 カフェインは滅多に取らない。だから眠気覚ましとして強烈に作用してくれる。本当はブラックが一番目が覚めるんだろうけど……ブラックは好きじゃない。

 あとは待ってる時間で勉強をする。参考書を読み進めるのだ。

 澪おねーさんに語った夢。高校に行ったその先に何があるのかは知らないけれど、人並みの青春を送ってみたいと思ったのだ。

 勉強して、部活をして、友達とハンバーガーを食べたり──恋をしたり。

 恋、とりわけそれをやってみたい。今まで恋愛感情のない関係性しか持ってこなかったから。誰かを好きになって、告白して付き合って。あぁ、そんな当たり前の青春を望むのは、贅沢だろうか。

 贅沢ではないと思う。思うけど、そのためにはお金が必要だ。

 しかも、今までのように体を売って稼ぐことができない。

 ……殺されるかもというあの恐怖は、二度と感じたくない。それが一番の理由だった。


「働かなくちゃ、ダメなのかなぁ」


 働く事はいい。アルバイトだって青春の一つだと思うから。だけど、わたしのような子はどうやってバイト先を探せばいいのだろう。そもそも、親権者のいない子を雇ってくれるような、いわばグレーゾーンのバイト先を探さなくてはいけないのだから。

 わたしが体を売っていた理由はそこにあった。売春なら、親権者は関係ないから。だからわたしは売春という手段でお金を稼いでいたのだ。その結果があのトラウマなわけだけど。

 ピーピーと、洗濯機が鳴る。乾燥まで終わったらしい。わたしは洗い終わった洗濯物をカゴに入れ、コインランドリーを出た。

 青春も、アルバイトも、今のわたしには難しい事だ。そのために必要なものが欠けているのだから。

 高校に行くためのお金がなく、そのお金を稼ぐためのバイト先もない。それがいちばんの問題だった。




 澪おねーさんの部屋に戻り、洗濯物を畳む。そうすると、時間が沢山余った。夕食の準備をするのにはまだ早いし、冷蔵庫が届いたのもあって買い出しの必要もない。つまり、単純な言葉にすれば暇。

 そして、暇ということはこの部屋に一人、やる事もなく居続けなくちゃいけないわけで。いつもなら参考書を読んで時間を潰すのだけど、ぼんやりとした頭では内容を理解できないだろう。

 そして、そうなると訪れるのは寂しさだ。ひとりぼっちだと居室は広く感じられて、寂しかった。

 その寂しさから逃げるには、眠るのが最善だ。そう思ってわたしは布団を広げた。その中に入って目を閉じる。

 感じるのは、少し重たい布団の重量。重力に従ってわたしの体を押し付ける。

 まぶたの裏には、何もない。鼻をくすぐる匂いは、無色透明。わたしという存在が、世界から切り離されたかのような錯覚。

 怖い。この世界に、本当にわたしという存在があるのか。その現実感が欠如し始めた事で、恐怖心がわたしの心に入り込む。


「──っあ」


 慌てて布団から出る。視界に澪おねーさんの部屋が見えた事で、意識が世界を認識する。あるいは、世界からわたしが認識された。どちらかはわからないけれど、おかげで恐怖心は薄れてくれた。

 だけど、孤独感は消えなかった。世界に存在はしていても、今現在のわたしを知るものは誰一人としていない。

 別に、見知らぬ誰かに観測されたいわけじゃない。ただ──、


「澪おねーさん……」


 雨宮澪、彼女にさえも観測されていない現状が嫌だった。

 澪おねーさん。売春を始めてから出会った人の中で、唯一わたしの事を大切にしてくれた人。

 お金でわたしを買って、だけど抱こうとしなかった人。

 わたしの気持ちを尊重してくれた人。

 彼女といると心地が良い。他の人といる時より、澪おねーさんと一緒にいる時の方が気が楽だ。

 それはきっと、自分の素顔を遠慮なく晒せる相手だから。彼女相手になら、誰からも好かれる──性行為をしたい相手という意味で──わたしを演じなくてもいいから。


「澪おねーさん」


 彼女の感覚に包まれたくて、気がついたらわたしはベッドに横たわっていた。

 匂いがする。澪おねーさんの匂い。長い年月を経て染みついた、彼女の匂い。

 通常体臭というものは、好ましいとは言えないものが多い。それはわたしの経験からも断定できる。

 だけど、不思議と嫌じゃなかった。澪おねーさんの匂いは安心できた。

 包まれているような感覚がする。澪おねーさんの匂いを、全身で感じ取れていた。


「澪おねーさん、夢を応援してくれるって言った……」


 あぁ、その言葉はすごく嬉しい。けど、そんなことよりもわたしは、


「でもね、あなたが優しくしてくれたことがいちばん嬉しかったんだよ」


 わたしが澪おねーさんの誘いに頷いた理由、この家に来た理由。

 売春するということは、少なからず自分の心を殺すということ。そこに現れた光。誘蛾灯だとしても──結果として違ったけど──、その光に誘われるのは自然なことだろう。


「澪おねーさん、にであえ……て……よかっ……」


 呂律が回らない。意識が落ちていく。この匂いは落ち着く。だからより深くまで落ちていく。落ちて、落ちて……。

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