第40話 スモール・キス
『ね、お花見行かない?』
と、突然乃亜ちゃんからチャットが飛んできた。ホワイトデーが終わって、少しした日の夕方の時間。私は読んでいた本を閉じて、返信する。
『お花見?』
『うん。今日テレビを見ていたらさ、お花見シーズンだっていうから』
『あぁ……確かにそうかも』
返信して考える。お花見かぁ、と。
昔、古い記憶だけど、父親が休みの日に連れて行ってもらった記憶がある。あの時はまだ幼い子供で、どんな事をしたのかも覚えていない。
覚えていないけど、楽しかった記憶がある。
『うん、いいよ』
『ホント! やった。楽しみ。いつ空いてる?』
『いつでもいいよ。あー、でも晩御飯作らなくちゃいけないから、夕方には戻らなくちゃだけどいい?』
『そっか。本当は一緒に晩飯も食べたかったけど、それなら仕方がないか』
泣き顔のスタンプが送られてくる。ややあって、
『いまご飯ってえっちゃんが作ってんの?』
その質問が飛んできた。
『そうだよ。お世話になってる人が、あんまり生活状況良くなかったからさ』
『なるほど。お世話になってる人って男の人?』
『ううん、女の人』
『そっか、なら安心かな』
乃亜ちゃんとのチャットは軽快で、一見昔のように行えていた。だけど、あんまり面白いとは思えなかった。
昔は、たわいのない話で盛り上がり、夜通しチャットして叱られたりもした。だけど、今はこのチャットを何時間も繰り返すことなんてできないように感じていた。
『じゃあ、春休みに入るし、明後日の朝に駅集合でどう?』
『うん、いいよ』
そう返事をして、私は倒れ込む。
不安要素が大きい。私は今の乃亜ちゃんを知らない。やっぱりそこが大きな不安だった。
知らないから、今の彼女とどう接していいのかがわからない。いっそ完全に初対面なら、とそう思わざるを得ない。
「乃亜ちゃんか……」
昔はどうやって話してたっけ。
「忘れちゃったなぁ」
天井を見上げる。シミだらけの天井は、私の今の心そっくりだった。不安が、心のシミになっている。
……ふと思う。なんでか心がワクワクしない。
澪おねーさんから動物園デートのお誘いを受けた時は、すごくワクワクしていた。前日なんか、寝付けなかったほどだ。
だけど、なんでか乃亜ちゃんとお花見となった時に、ワクワクしないのだ。楽しみではない、というわけではない。ただ、本来あって然るべき高揚感が感じられない。
「んー?」
わからないなぁ、と思いながらわたしは起き上がる。
別に、乃亜ちゃんのことが嫌いなわけじゃない。むしろ好ましいと──もちろん友達として──思っている。
なのになぜ、ワクワクしないのだろうか。
お花見、というシチュエーションに気乗りしていないのか。
考えても答えは出ない。
「はぁ……家事しよ」
このまま考えても答えは出なさそうなので、とりあえず家事をすることにした。
「あ、そうだ。明後日わたし家を空けますね」
食事を終わらせ、風呂から上がった澪おねーさんに声をかける。わたしは食後のお皿を洗っている。
時刻は九時半。これを終わらせたらわたしもお風呂に入って寝る。
「明後日? いいけど、どっか行くの?」
「数日前に話していた友達とお花見に行くんです」
「お花見? いいわね」
澪おねーさんがベッドに腰掛ける音が聞こえる。スプリングが軋む鈍い音。
わたしは最後の食器を洗い終える。手を拭いて、澪おねーさんの方に向き直る。
その時、わたしの視界が停止した。思考が停止したのかもしれない。
風呂上がりの澪おねーさんは、ずいぶんと色っぽく見えた。髪が頬に張り付き、血色が良くなって頬が赤い。唇もより紅く、艶やかに。
パジャマは少し緩く、胸元が見えていた。素足が所在なさげに揺れて、スラリとした太ももがチラリと裾から覗く。
それに気がついているのか否か、彼女はリラックスしている。
……澪おねーさんって、こんなに色っぽかったっけ。
「どうしたの?」
「な、なんでもないよ、うん」
心臓から腹部にかけて、何かが這いずり回る感覚。手先が痺れ、彼女の事で思考が埋め尽くされる。
もっと彼女のいろんな姿を見てみたい。
「あー、っと。澪おねーさんともお花見行きたいな。オシャレして、さ」
「お友達と行くんでしょう? 二回行くことになるけどいいの?」
「お花見は何度行ってもいいと思うんだよね」
「……そうね。じゃあなんとか仕事休める日を作ってみるわ」
澪おねーさんが微笑む。やった、とわたしは内心で喜んだ。澪おねーさんとお花見、ワクワクするなぁ。
「じゃあ決まりだね。お風呂入ってくる」
ニヤける顔を隠しながら、着替えを用意して浴室まで行く。着替えを後付けの棚に置いてから服を脱ぎ、髪を洗い始めた。
「澪おねーさんと一緒に出掛けられる……楽しみだなぁ」
どんな服を着てくれるのかな。オシャレして、と指定したからきっと、いつものスーツ姿じゃないと思う。
カッコいい服かな、それとも可愛い系? あ、美しい系でも似合いそう。
いろんな服装の澪おねーさんを想像して、その度に鼓動が強くなるのがわかった。
こんなのは初めてだ。なんていう感情なのか、それはわからないけど、なんだかすごく幸せな感情だ。
わたしは体を洗い、湯船に入る。一日の家事の疲れが、お湯の中に溶け出ていくかのようだ。
「はふぅ」
澪おねーさんのところに転がり込んだ事で、毎日お風呂に入れるようになった。今までも銭湯に行ったりはしていたのだけど、節約のために飛ばす日もあったから、毎日気兼ねなくお湯に浸かれるというのは素直にありがたい。
その、わたしも一人の女の子であるわけだし。
ちなみに最初の数日はシャワーで済ませていた。すると澪おねーさんに、ちゃんとお湯に浸かりなさい、遠慮しなくていいからと言われた。
のんびりと天井を見つめる。体感で十五分ぐらいか。湯気で歪んだ天井を眺めていると、思考がぼんやりとしてくる。のぼせてきたらしい。
わたしは湯船から出て、据え付けのわたし専用バスタオルで体を拭く。それから、下着、パジャマと身につけていく。
浴室を出ると、規則正しい寝息が聞こえてきた。澪おねーさんはもう眠ってしまったらしい。
わたしも寝ようと、壁のスイッチに手を伸ばす。ボタンを押そうとした直前、
「ん……むぅ……」
澪おねーさんが寝返りを打つ。その顔がわたしの方に向いた。
……なんて無防備なんだろう。
一歩、わたしは澪おねーさんに近づく。電気はつけたままだ。
二歩、彼女の寝顔が、近づく。
三歩。わたしはベッドの上に。膝立ちの状態で乗る。
そして、わたしは彼女の唇に、自分の唇を近づける。
最近はリップを塗るようになって、潤いが戻ってきた唇。目の前にそれがある。もう少し近づければ、キスできてしまう。
キス。今まで散々やってきた事。それこそ、唇だけに飽き足らず、舌を絡めるようなキスだって何度もしてきた。そのやり方は熟知しているつもりだし、実際経験だけは奇妙なほど豊富だ。
だというのに、今この場において、尋常じゃなく緊張している自分がいた。
……キスなんて、なんて事ない行為のはずなのに。
ゆっくりと、顔を近づけていく。澪おねーさんは起きる気配がない。
触れた。唇と唇が。柔らかくて、やっぱり少しガサついた唇の感触がした。
湿り気、体温、それから唇の後ろの血管を走る鼓動。全て、ゆったりとした時間の中で、敏感になったわたしの感覚に入り込む。
「……ん」
それらを、澪おねーさんの存在を唇でしっかりと感じ続ける。
こんなキスは初めてだった。なんでこんなふうになっているのか、理解できない。
唇が離れる。唇と唇の間に糸が生まれる。
「はぁ、はぁ、はぁ」
息が荒い。何をしているんだ、わたしは。こんな襲うような真似を、なんで。
わたしは逃げるようにベッドから降り、自分の布団に潜る。
心臓がうるさい。自分が何をしていたのか、それを思うと気が狂いそうになる。
目を閉じる。早く眠ってしまえと、自分に言い聞かせる。
早く、早く、早く──。
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