第38話 再会
「くぁ……」
わたしの一日は六時ごろに始まる。数日前に届いた布団の中で五分ほど睡魔と格闘し、モゾモゾと抜け出す。
それから浴室で顔を洗い、私服に着替える。まだ肌寒い空気が、わたしの体を突き刺す。それらをこなすのに十五分ぐらい。
それから朝食の用意を開始する。料理に不慣れなわたしは、レシピと睨めっこする関係上、早めに作り始めなければ間に合わないのだ。
今日のレシピは、シンプルな和食だ。ご飯と魚と味噌汁。それらの準備をしながら、私はイヤホンを着けてラジオを聴く。
このラジオは、天気把握のため、と野宿生活と同時に購入した物だ。安物だけど、操作性がよく気に入っている。
『……以上、本日の天気でした』
『春野さん、ありがとうございました。えー、本日は晴れ、という事でね、いいホワイトデー日和じゃないかな、と思うんですけども』
MCの言葉で気がつく。今日は三月十四日、ホワイトデーだと。今年は寒かったから、三月に入った実感が湧かなかったけど、そうか、もう三月かと思う。
澪おねーさんの家に厄介になって、一週間と少し。日時感覚の狂う生活をしていたせいか、これらも三月の出来事だったか。
「ホワイトデー、かぁ」
今までの人生で、まぁ縁のないイベントだったけれど、面白いイベントだと思う。バレンタインデーのお返しの日。
ここで大事になってくるのは、お返しの日だという事。つまり、究極バレンタインデーのお返しでなくてもいいのかもしれない。
「なにか、澪おねーさんにお返ししたいなぁ」
社会的リスクのあるわたしを家に置いてもらって、安心できる環境をくれた澪おねーさんに、何も恩返しできないというのも気になる。
「お菓子作ろうかな」
澪おねーさんの趣味嗜好はわからないけど、とりあえず簡単なお菓子でも作ってみよう。確か料理本の後ろの方にお菓子のページもあったはず。
帰ってきた時のサプライズだ。
そう考えながら、ご飯を炊き、魚を焼く。出汁をとった鍋に具材を入れて、味噌を解く。
お味噌汁の味見をすると、パーフェクト。美味しいお味噌汁だった。
さて、澪おねーさんが仕事に出掛けて、わたしは一通りの家事を終わらせた。と言っても毎日掃除をしていれば、自然と埃もなくなっていくわけで、最初の頃のような大変さはなくなっていた。
さて、いつもならここからは自由な時間、本を読んで勉強する時間なのだけど、今日は違う。
澪おねーさんへの恩返しをするのだ。
外に出るため、化粧をする。ぱぱぱっと終わらせて、おしゃれな上着を着る。澪おねーさんに買ってもらったものだ。
それから靴を履いて外に出る。春の暖かさをわずかに感じるが、まだ寒い。それに今日は、少し風が出ていた。
無意識に上着の襟元を掴んであげていた。気がついてから、もう三月なのにと思った。地球温暖化なんて実感できないなぁ。
スーパーに行き、必要なものを買っていく。料理本の材料リストを写真に収めておいたので、それを見ながら選ぶ。
今日作るのは、パンケーキだ。甘いパンケーキにする。澪おねーさん疲れているから、甘いものを食べて癒されてもらいたい。
一通りの材料をカゴに入れて、レジに持っていく。無理に作ったであろう店員の笑顔に礼を言って、サッカー台に。エコバックに詰め込んでいく。
「あれ?」
と、その途中で声が聞こえた。わたしに向けられた音だ。
「もしかして松本さん?」
苗字を呼ばれて、わたしはそちらに振り返る。そこに居たのは、わたしの古い友達だった。
澪おねーさんにも述べた事だけど、わたしの属するコミュニティは狭かった。だけど、友達は確かに居た。
「え? あっ、もしかして
彼女は
「そうだよ。よかったぁ、覚えててくれて」
「もちろん覚えているよ。一緒に登校したよね」
乃亜ちゃんはわたしの住んでいた場所のすぐ近くに住んでいて、登下校班が一緒だった。彼女はわたしの一つ下の年齢で、可愛い妹のように甘やかしていた事を思い出す。
しかし記憶とはだいぶ違う。面影が残っていたから乃亜ちゃんだと気がつけたけど、こんなにギャルになっているとは。
肩より少し下まで伸びている髪は金色に染め上げられ、カールが掛けられている。目元はやや吊り目に見えるメイク。化粧も結構厚めだ。
制服をガッツリと改造した服の上から紺のジャンパーを羽織っている。
「引越し先知らなかったんだけど、このへん?」
そう、乃亜ちゃんは五年生の時に親の仕事の都合で引越した。デジタルネイティブなわたしたちは、互いの住所を教え合わずに、チャットアプリでやり取りしていた。
ただ、父親の死による家計の悪化で、わたしの携帯回線は解約された。仕方のない事だと割り切っていたけど、それをきっかけにわたしたちの交友も途切れたのだった。
だから、まさか再開できるとは思わなかった。
「この辺だよ。ママが繁華街でスナックやっててさ。今日はその買い出し。松本さんは?」
「お菓子作りの材料を買いに。ホワイトデーだし、作ってみようと思って」
詰め終わった袋を掲げて見せる。
「えー! 松本さん、もしかして誰かにあげるの? もしかしてバレンタインにチョコ貰った系なの?」
「別に……そういうんじゃ」
澪おねーさんに恩返しではあるけど、別にバレンタインデーのお返しじゃないので言葉を濁す。
「そっかぁ。てかさ、えっちゃんって呼んでいい?」
ずいっと彼女はわたしに近づく。
「えっ、えっちゃん?」
「下の名前、
「あぁ、そういう……まぁ、いいけど」
こんなにグイグイ来る子だったっけ、この子。もっとおとなしかったような気がするんだけどな。
うわ、目がパッチリしていて可愛い。化粧も自分の特性をしっかりと理解してされている事がわかる。まつ毛も長いし……かなり美少女に成長しているなぁ。
「つかさ、えっちゃんをあーしの事のっちゃんって呼んでたじゃん。またそう呼んでよ」
「いや、それは……恥ずかしいし」
のっちゃんはちょっと子供っぽすぎて呼ぶのが躊躇われた。
「いけずぅ。ま、いいや。チャット交換しよ」
彼女はジャンパーの上からスマホを取り出して、慣れた手つきでチャットアプリのコードを出す。
「うん、いいよ」
わたしもスマホを取り出して登録する。
「これで昔と同じだね、えっちゃん!」
「そうだね、一緒。うん、懐かしいなぁ」
昔とは何もかも違う。子供の頃の友達に再会して思う。
きっと彼女は──予想外の変化を見せたものの──本質では何も変わっていない。わたしと違って。
わたしが変化してしまったとも取れる。子供の頃のわたしはもうここにいない。
今こうしている間にも、彼女との距離感を掴み損ねているのがその証拠だ。
「よし! っと、そろそろ行くね。また遊ぼうね、えっちゃん!」
乃亜ちゃんが手を振る。その光景を見ながら、わたしは少し寂しい気持ちになっていた。
子供の頃には戻れない。彼女のように、明るいままではいられない。
だって、わたしは取り返しがつかないほどに汚れてしまっているのだから。
「乃亜ちゃん、かぁ」
突然の再会だった。彼女はギャルになっていたけれど、それでも清廉潔白なままなのだろう。
あぁ、そうだ。わたしではそこには戻れない。子供らしく振る舞うには、わたしが汚れ、そして擦り切れすぎたのだから。
それが、寂しさの本質なのだろう。きっと、そうなのだと思う。
「……帰ろ」
買ったものを持って、わたしはスーパーを出る。春が来ているはずの空は、どうしようもなく冷たく見えた──。
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