第37話 夢
「先輩、ご飯買いに行きましょうよ」
昼休憩の時間。大橋さんが私を誘う。いつも通りだ。たまには他の社員と買いに行けばいいのに、とか思ったりする。
「ご飯ねぇ。ごめんなさい、今日はお弁当持ってきているのよ」
私はカバンから、エリナの用意したお弁当を取り出す。そこまで重量は感じられなかった。
「え?」
一瞬、大橋さんが何言ってるんだ、コイツと言わんばかりの目つきになった。正気を疑われている気持ちになる。私は正気ですよ。
「ほら、これ」
お弁当を掲げて見せる。
「先輩、料理できたんですか?」
「違うわよ。同居人が作ってくれたの」
「へぇ……いいなぁ」
何やら羨ましげに私のお弁当箱を見ている。欲しいのだろうか。けど、せっかくエリナが作ってくれたお弁当をあげるわけにはいかない。いかないので、
「あげないわよ」
「違いますよぉ!」
大橋さんが慌てて訂正する。胸元で手を横に振って、それがメトロノームみたいだった。
「ただ、あたしも先輩にお弁当作ってみたいなぁって、そう思っただけですよ」
「なにそれ。小粋なジョーク?」
大橋さんが私にお弁当を作りたいなんて、それこそ冗談以外考えられない。お弁当を作るってかなり手間だと思うし、大橋さんが私のためにそこまでする理由が思いつかないから。
「むー、鈍感」
「はい?」
突然の暴言に、私は困惑を覚える。なんか、拗ねているように見えた。可愛らしい唇を尖らせ、ちょっと顔を背けていた。
「あーあ、先輩とご飯買いに行けないのかぁ」
「たまには他の社員と買いに行ってきたら?」
「あたしは先輩と一緒だからいいんですぅ。やっぱり鈍感だ」
んー、と言葉の意味を咀嚼しようとする。大橋さんが何を思い、どんな意図でその言葉を発したのかを理解しようとする。だけど、わからない。
というか、なぜ鈍感と罵倒されているんだろう。
「なんか今日は買いに行く気にならなくなっちゃった。先輩、ストックのチョコバー貰ってもいいですか?」
「いいけど……足りるの?」
「どうせ動かないですし、夜多めに食べるから大丈夫です」
大橋さんがゴソゴソと私の机を漁り始める。ふわりと甘い香水の良い香りがした。お花の匂いだろうか。
……変態みたいなので、言及するのはやめておく。
「私も食べよ」
お弁当箱の包みを外して、お弁当箱──といってもタッパーだけど──を開く。卵焼きとウインナーと野菜の炒め物、ご飯には梅干しが乗っている。
美味しそうだ。自然、胃が稼働を開始する。
大橋さんがチョコバーを見繕い終わったのか、自分の机に戻っていく。
「いただきます」
それを見送ってから、私も食事を開始する。
初めてのお弁当は、少し味付けがキツかった。
「あー、疲れた」
コキコキと音を鳴らしながら、大橋さんが肩を回す。
「お疲れ様。今日は早く終わったわね」
「ですね。課長の無茶振りもなかったですし」
雑居ビルを出て、帰路に着く。
「そういえば、先輩の同居人ってどんな人なんですか?」
「んー? 良い子よ。素直な子でね、優しくて」
「うわ、怪しい。それ、騙されてません?」
エリナに騙される──想像ができない。あの子、本質的に善人だから。
あの子は嘘がつけない。人を騙せるタチじゃないと思う。それに、あの時の涙が嘘だなんて、思いたくはない。
「騙されてないわよ」
まぁ、仮に騙されていたとしても失うものなどそんなにないし、いいんだけど。
「なら良いんですけど。でも先輩、変わりましたよね」
「そうかしら。自分ではわからないわ」
「変わってますよ」
と大橋さんは私の顔を覗き込む。
「今までの先輩は化粧なんてしていなかった。けど今はしていますよね」
「それは、まぁ」
「それに少し血色が良くなりました」
彼女は私の手を取る。指先がタイピングで固くなった彼女の手は、しっかりとメンテナンスされているのだろうか。やや引っかかるものの、基本的に滑らかだった。
「それに、表情も少し柔らかくなったていうか、余裕があるように見えます」
「そうかな……自分じゃわからないけど」
けど、そうかもしれない。エリナと一緒に暮らすようになって、生活に余裕が生まれたから。結果として良い方向に作用しているのかもしれない。
とはいえ、自分では実感が湧かないのも事実。大橋さんの指摘されて初めて自分に変化が発生していることに気がついた。
「前から素敵でしたけど、今の先輩はもっと素敵になってます。自分に自信を持ってくださいね」
「自信ねぇ……」
自信の持ち方なんてわからない。夢もない、生きる意味もない自分に自信を持てるわけがない。
「夢でもあれば、自信持てるのかも」
「夢ですか……先輩は何か、やりたい事とかないんですか?」
「ないわね。惰性で生きてるから」
返事をしながら、エリナの夢ってなんだろうってふと思った。動物園の時に行っていた夢が気になった。
「そういう大橋さんの夢ってなんなの?」
その疑問から意識を逸らす。今考えても、特に解決しないから。
「あたしですか? あたしは、好きな人を支えていきたいなぁって」
「いるんだ、好きな人」
「そりゃあいますよ、好きな人ぐらい。ま、全然アプローチに気がついてくれないんですけどね」
大橋さんは空を見上げる。手を伸ばして、星を掴むかのような動きをする。
でも、空は曇っていて、星も月も見えない。
「その人はあたしにとってお星様なんです。でも、その空は曇ってて掴めない」
と、大橋さんはこっちを向く。
「でも最近、ようやく晴れ間が見えてきたんです。だから、それが夢です」
大橋さんに好かれている人はいいわね、と思う。
こんなにいい子なのだから、きっといいお嫁さんになる。そう思ったのだった。
「ただいま、疲れたぁ」
居室に戻ると、壁にもたれかかってエリナが本を読んでいた。彼女はこちらを視認すると、ぱぁっと顔を明るくして立ち上がる。
「おかえり、澪おねーさん」
「ただいま。何読んでいたの?」
「参考書。高校行ってないから、空いた時間で頑張らないと」
そういえばそうだった。彼女見た目は女子高生でも、高校に行っていないんだった。
「そうなんだ」
「将来高校に行きたいし……それが夢なんだ」
と、さらっとエリナは自分の夢を暴露した。高校に行きたい、と彼女は言った。
できれば今すぐにでも叶えてあげたい。だけど、それはすぐには難しい。諸々の手続きもあるし、学力だって必要だ。
だから勉強しているのだろう。高校に行く、というごく普通のことを希望にして。
「そっか。エリナちゃんは高校に行きたいんだ」
「そうだよ。高校に行って、勉強に部活にって青春したいなぁ」
「そっか。私、応援するわ」
「ありがとう。さ、ご飯食べよ。とりあえずお腹を膨らませなくっちゃ」
エリナが本を置いて、食卓に着く。
「そういえば冷蔵庫買えたの?」
「買えたよ。数日のうちに配達してくれるって」
「そっか、よかった」
「お釣りであの本買っちゃったけど良かったんだよね」
「もちろんよ。けど、参考書ぐらい買ってあげたのに」
私にできることはそれぐらいしかないから。娯楽物ならともかく、勉学ぐらいは不自由しないようにしてあげたい。
「うーん、そう言ってくれるのはありがたいけど、別にいいかな。わたしの夢だからさ、それに巻き込むのは罪悪感があるっていうか」
「そっか。じゃあこれ以上は口出ししない。けど、応援しているからね」
「うん、ありがとう」
親切の押し売りは嫌われる原因になる。だからここが引き時だ。
だけど、もっと頼って欲しいと思うのは私の我儘なのだろうか──。
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