第36話 朝ごはん

 春の陽気が迫る頃になってきた。エリナと一緒に暮らすようになって一週間ほど経って、ようやく慣れ始めた頃。

 私の体がゆすられる。肩に柔らかな手の感覚がした。


「澪おねーさん、朝だよ」


 玲瓏な声、優しく私を起こしてくれる人。その声で私は目を覚ました。


「朝……あー、朝かぁ」


 ちょっと自分でも何を言っているのかがわからない。思考が回っていない証拠だ。

 ただ、スッキリはしている。寝不足時のモヤのかかった思考ではなかった。


「おはよう、エリナちゃん」

「はい、おはようです。ご飯できてるから、顔洗ってきて」

「ふぁーい」


 生返事をしながらベッドを出る。パジャマを脱いで浴室に入り、蛇口から水を出して顔を洗う。冷たい水が思考をスッキリさせてくれた。

 顔を拭きながら外に出る。タオルは浴室に置いてあるものを使用する。


「あー、引っ越したい。洗面台が欲しいわ」


 生活に余裕が出てくると、今まで気にしていなかった事が気になってくる。主に洗面台について。

 今までは適当に済ませていた──もちろんそれには時間的都合も多分に含まれる──けど、エリナが家事を引き受けてくれたことでその問題点に気がついた。

 要するに、不便なのだ。時間に余裕があるから、少ししっかりした生活をしてみようとか思ってしまうようになり、結果今まで感じなかった不便を感じるようになった。


「洗面台かぁ。なんとか考えたいね」


 エリナも概ね同意してくれているらしい。そりゃあそうだろう。私ならまだしも、年頃の女の子にとって洗面台がないというのは割と致命的だと思うのだ。


「ま、それは後々考えれば良いんじゃない? とりあえずご飯食べて」


 机の上には、目玉焼きとパンを主とした朝食が二セット置いてあった。それとコーヒーも。

 この一週間で、エリナの料理スキルはかなり上がったと思う。言ってしまえば、簡単なものならちゃんと食べられるものになった。

 そうするとしっかりと実感できる。誰かが食事を作ってくれること、ちゃんとした朝食を食べられること、この二つのありがたさが。

 目玉焼きに塩を振りかけて、箸で切り分ける。本当はナイフとフォークとかで優雅にいただきたいところだけど。

 それから、コーヒー。インスタント特有の風味がする。


「はぁ……朝からこんな優しい食事が食べられるなんて……幸せ」


 コーヒーを飲み込んで、本心を口にする。


「目玉焼きも美味しいし、最高よ」

「えへへ、ありがと」


 エリナが照れた様子でそう言った。顔を赤めて、少し俯く。口元が緩んでいるように見える。


「その、今日は何時ぐらいに帰れそう?」

「今日は──頑張って八時は上がれるようにするわ」


 抱えている案件を考えるならば、八時には上がれると思う。もっとも、急に増えたり仕様変更があったりするから……善処する程度でしかないのだけど。


「そっか、わかった」


 なんかこの会話、いいなぁと思う。誰かと一緒に暮らしているという感覚がして、心が温かくなる。

 こんな感覚は初めてだった。


「あ、そーだ。澪おねーさんに一個お願いがあるんだけどさ。冷蔵庫が欲しいなーって思ってるんだけど」

「冷蔵庫?」

「そそ。作ったご飯とか、買ってきた食材とかを入れられたら、腐らせずに済むし買い出しも少なくて済むからさ」

「なるほどねぇ。いくらぐらいするの?」

「メーカー次第だけど、平均五万強かな」


 通帳の中身を考える。冷蔵庫かぁ、と思いながら。

 確かにあると良い。置く場所も、まぁ確保できている。お金も──うん、大丈夫。まだ貯蓄はある。


「わかったわ。お金を渡すから買ってきてくれる?」

「え? 良いの?」


 と、頼んだ側であるエリナが驚いたので、


「だって必要なんでしょう? だったら調達しなくちゃ」

「それは、そうだけど。なんだろう、即答されるとは思っていなかったから」


 確かに五万円といえば、それなりの大金だ。だけど、彼女には食事を作ってもらっているという恩もあるし。QOLのためにも必要だろう。

 私は鞄から財布を取り出し、六万円を手渡す。


「余ったらお小遣いにして良いからね」

「えっ、いいの?」

「家事してくれてるんだし、遠慮しないで。ついでに遊ぶものでも買ってきたらどう?」

「……じゃあ、そうする」


 半ば納得してない様子でエリナが首肯する。


「うーん、やっぱりわかんないなぁ。なんで澪おねーさんがそこまでしてくれるのか、この一週間ずっと考えていたんだけどさ。なんで?」


 かと思えば、大真面目な顔でそんな事を訊いてきた。

 なんで、か。そういえば考えた事がなかった。目の前で知り合いの少女が苦しんでいて、私がその子の苦しみをなんとかする事ができるなら──と、そんな殊勝な事を考えていたわけじゃないし。


「バスで語った事が全てよ。一緒に過ごしたいからってだけ」

「一緒に、ねぇ。そこなんだけどさ、なんでそう思ったんだろうって」

「それは……」


 それは、エリナはすっごく魅力的な少女で、ある種のファム・ファタール的な雰囲気を纏っていて、そんな彼女に魅了されたから。今にして思えばそうだったようにも思う。

 ここで大事な要素は、アルコールの有無だ。


「あの時酔ってたから、正直よく覚えていないわ」


 だから結局、そこなのだった。

 エリナはその返答に、


「そっか。うーん、残念。澪おねーさんの事知れるチャンスだったんだけどなぁ」


 なんて、おかしな事を口走っていた。




「はいこれ」


 エリナに教わった化粧を済ませ、さあ出ようという時に、彼女は何かを差し出してきた。

 四角い形状で、布に包まれている。


「お弁当、作ってみた。どうせコンビニ弁当とかでしょ?」


 言われてぎくりとする。


「だって仕方ないじゃない。時間は限られているんだし。定食屋に行ってる余裕はないわよ」

「だと思った。だから作ってみたんだよ。上手にできているかどうかは……あんまり自信ないけど」


 エリナが弁当箱を押し付けてくる。その仕草があんまりにも可愛らしいものだったので、


「ありがとう、エリナちゃん」


 と、受け取ってつい頭を撫でていた。一瞬子供扱いしちゃって怒るかなと思ったけど、今更かと思い直す。

 えりなの様子を伺うと、


「……っ」


 何かに耐えるような表情で、口元を緩ませていた。一人百面相でもやっているのだろうか、という冗談はさておいて、こんなに喜んでいるのならもっと軽率に撫でても良いのかもしれない。


「も、もう。早く行って! 電車に乗り遅れるよ!」


 明らかに照れ隠しをしながら、エリナが私を押し出す。むぅ、そんなに恥ずかしいのか。じゃあやっぱりやめておいたほうがいいか。

 年頃の子との接し方はよくわからない。そう思う。


「じゃ、行ってくるね」

「うん、行ってらっしゃい」


 そう短く言葉を交わし、私は仕事に向かった。

 手に持ったお弁当が、今日の心の支えになってくれそうだと思いながら。

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