第35話 売女

 仕事の進捗が良くない。具体的には、今日中に上げないといけない案件が、未だ終わる気配を見せないのだ。

 私は机の引き出しを開ける。そこにはこういう時用のエナジードリンクのストックがたくさんあるはず──だった。


「あっ、切らしちゃった……大橋さん、そっちエナドリ余ってない?」

「エナドリですか? えっと──あ、ありますよ。何種類かありますけど」

「なんでも良いから二本もらっていい?」

「体壊しますよ、それ。一本で我慢してください」


 苦言を呈しながらも、大橋さんが椅子をスライドさせて、エナドリを持ってきてくれる。黒に緑の缶をしている。


「ありがとう、大橋さん」

「どういたしまして。進捗どうですか?」

「こっちの案件はもう全然ダメ。今日までなのに、上げられる気がしないわ」


 エナドリのプルトップを開ける。一気に煽ると、口の中にケミカルな味が広がった。


「よくそんな一気飲みできますね」

「不味いものはさっさと終わらせるには限るってね。さ、やるわよ──うん?」


 机の上に置きっぱなしのスマホに、一件の通知。開くと、エリナから何時に帰るのかというチャットだった。

 進捗を確認してから返答しようと思ってアプリを閉じる。並んだアイコンの後ろにエリナの写真が表示された。


「……あれ、その子って」


 まだ席に戻っていなかった大橋さんが、私のスマホを覗き込んでいる。


「エリー? なんで先輩が写真持ってるんですか?」

「あー、と。これは、その……」


 さて、どう言い訳したものか。

 エリー、つまりエリナとの関係性について。

 まず前提、エリナと大橋さんが売春を通じて知り合ったという事。それを念頭に置いて、


「この子は、その。ほら、この前私の看病してくれた子だからさ、お礼にって動物園に連れて行ったのよ」

「動物園に、ですか。でも、壁紙にする理由にはならないですよね?」


 苛立ちか、あるいは別の感情か。とにかく大橋さんの言葉から負の感情がのぞき見える。


「それは、その。なんていうか、ほら私ってあんまりそういう人付き合いないじゃない? だから覚えていたくて壁紙に設定したというか……」

「なるほど……うーん」


 大橋さんは何やら考え込む。ブツブツと呟きながら椅子を三回転ほどさせたところで、


「もしかして、この前言っていたパパ活の子ってエリーの事ですか?」


 小声でそう訊いてきた。私は突然の不意打ちにエナドリを噴き出しそうになり、すんでのところで飲み込んだ。液体が気管に入ったのか、強烈な痛みが走る。


「ご、ごほっ、ご──な、何を根拠にそんなこと言うのかしら?」

「いやだって、彼女のやってる事とあの時の話を総合したら、まぁそういう発想に至りますよ。てか、他にそういう事してる知り合いいませんし。まぁ、半分鎌かけただけだったんですけど。課長! ちょっと先輩借りますね!」


 大橋さんが私を立たせる。昼休憩入りの時と違い、乱暴に。変に逆らうとこっちが怪我しそうなので、大人しく立たされる。

 大橋さんは私の手を引いて、オフィスを出る。雑居ビルの廊下の端っこまで私を引っ張ってから、


「で、いつからエリーと売春していたんですか? あの病室でそそのかされたんですか?」


 明らかに不機嫌そうな声を出した。


「はぁ……エリーを信用して呼び出したの失敗だったかなぁ。まさか先輩にまで粉かけるなんて……っとにさぁ」

「大橋さん? 何か勘違いしているみたいだけど、彼女と出会ったのは病院に連れて行かれるよりも少しだけ前よ」

「……じゃあ、したんですか、セックス。したんですよね」


 いつもの大橋さんからは考えられないほどの、こちらを明確に責め立てるような声。


「だって売女ですから。お金払って会うんなら、セックスぐらい平気でしますよね」


 売女、と大橋さんは言った。その言葉を聞いた途端、何やら自分の中でキレる感覚がした。

 確かに行動だけを切り取ればそう見えるかもしれない。だけどその裏にはエリナにしかわからない苦悩、葛藤、そして苦しみがあった。

 それらを知ることのない人間に、そんな言葉で彼女を括らないでもらいたかった。


「……」


 深く息を吸い込む。彼女がそう言った理由も知らなければいけないと思ったから。それを鑑みることなく、ただ感情に任せるだけでは私の母と同じだから。


「どうして売女なんて言い方をしたの?」

「自分の体を売っているんですから、売女ですよ。先輩だって、それを買ってセックスしているんだから、その言い方を批判する権利はないと思いますけど」


 それを持ち出されると弱る。事実は事実だからだ。


「けど、売女なんて言い方はするべきではないわ。そういう言い方をすれば敵を作るだけよ」


 勤めて冷静に。諭すようにそう言った。


「……はい、ごめんなさい」


 大橋さんが謝罪したのを聞いて、ため息をつく。何にも解決はしていないけど、とりあえず安心だ。


「それから一つ誤解を解いておくと、彼女と行為に及んだ事は一度もないわ。ただ、ちょっと話を聞いてもらっただけ。神に誓ってもいいわ」

「……そう、なんだ……そっか、よかった……」


 小声で安堵の声を発する大橋さん。何がよかったのかは私にはわからない。

 それはきっと私には理解できないことだ。大橋さんは大橋さんで、私ではないのだから。

 チラリとスマホを見る。オフィスを出てから五分ぐらいか。


「そろそろ戻らないと。案件が待ってるわ」




 静かに自宅の鍵を開ける。エリナがもう寝ているだろうから。


「ただいま――って、もう寝てるよね」


 一応、帰宅の挨拶だけはしておく。同居人がいるのならそれは必要な儀式だと思うから。

 居室に入ると、寝袋の上で眠気に耐えている様子のエリナがいた。


「おかえり、澪おねーさん」


 彼女がまだ起きている事に驚き、


「まだ起きていたの?」

「うん、澪おねーさんを出迎えたくて。でもゴメン、もう限界」


 そして、そのためだけに起きていてくれたことに感動を覚えた。

 彼女は目をこすりながら、


「おやすみ、澪おねーさん」


 寝袋に潜り込む。目を閉じた彼女の頭に触れ、


「ありがとう、エリナちゃん」


 彼女のサラサラな髪を撫でる。

 彼女は良い子だ。環境が彼女に売春を強要してしまっただけで、元来そんな事をするような子じゃない。

 もしそれを自分の意思だけで行うような子ならば、きっとあの涙はなかっただろう。

 そんな彼女の事を売女とは言われたくない。責められるべきなのは彼女ではなく、彼女から他の選択肢を奪ったうえで、喰い物にされるという選択肢だけを与えた天城家の連中だ。

 ──なんという皮肉だろうか。天城家の連中に傷つけられた少女が助けを求めたのが私だなんて。

 ……罪悪感はある。私は彼女の過去を知って尚自分の過去を明かしていない。

 そして私はそれを自ら明かす事はないのだろう。きっと、明かしてしまえば嫌われるだろうから。


「……ごめんね、エリナちゃん」


 どれほど謝っても、きっと償えない。私の過去、彼女の過去、その二つは決して相容れないものなのだから。


「ごめんね……」


 最後に一度、彼女を撫でる。年相応のあどけなさで、彼女は眠っていた。良い夢を見ているのだろうか、笑顔だ。

 机の上には、ラップが掛けられた食事があった。手を合わせて、食べ始める。

 その食事は優しい味。トッピングは罪悪感の味。

 彼女の過去を聞いた時からこの罪悪感は消えることがないのだろうと察していた。


「天城家、か」


 その組の名を、何年かぶりに口にした。

 かつて私の居場所だった、その極道の集まりを──。

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