第34話 一安心
「おい、どうして昨日休んだんだ!」
「ですから、体調が芳しくなく……連絡しなかったことは反省しています」
「おいおい、お前がいなければ仕事は回らねえんだぞ! 病気如きで休んで良いわけねぇだろうが! だいたいなぁ、お前この前も倒れただかなんだかで休んだじゃねぇか。ちゃんと体調管理してんのか!」
ドン! と、課長が机を叩く。卓上の湯呑みが倒れ、いくつかの書類に掛かる。
体調管理をしてるのか、だって? できるわけない。こんな労働環境で、そんな高度なことできるはずがない。
そもそも家に帰り、次の日出社する時間を考えたら最低限の睡眠すら取れているかどうか。
残業、終電帰り。始発じゃないだけまだマシかもしれない。
「──聞いてんのか、なぁ⁉︎」
胸ぐらを掴まれる。勢い余ったのか、皮膚に爪が食い込んでいたい。
「お前はいつもそうだよな。その非難する目が気に入らねぇ!」
壁に叩きつけられる。反動で頭を打ち、頭蓋の中が揺れる感覚と、鈍い痛みがした。
まぁ、昨日休んだ時点でこうなる事は想像できていた。それでも必要だからそうしたのは私の判断だ。
その結果、私の心拍数が上がっていた。視界が揺れ動くのは目線が定まらないからか。
「なぁ、お前は何を考えて──」
課長に向かって何かが投げつけられる。やや朦朧とする意識でそれを見る。水色の、社員に支給されるテープ台だった。
それが課長の腕にクリーンヒットした。痛みから彼は腕を抑え、私は解放される。咳き込みながら、息を整える。
「課長、流石にやりすぎです。これ以上は看過できませんよ」
視界を横に、そこには物を投げ終わった姿勢の大橋さんがいた。
震えている。かなり勇気を振り絞ったらしい。その顔にはある種の恐怖心も混じっていた。
それでも、私を助けるために投げてくれた。まぁ、ちょっとばかり殺意高めの物だったけど。頭に当たったり、手元が狂ったりして私に当たらなくてよかったと思う。
「む……いくらかな子くんでもやって良いことと悪いことがある。今のは悪いことだ……が、見逃そう。貸ひとつにしておく」
ギロリ、と課長は狂気を宿したような眼で大橋さんを睨む。大橋さんがたじろいだのを見て、面白そうに笑った。
こいつ、やっぱり狂っている。そう思わざるを得ない。
「何を突っ立ている? さっさと仕事に戻れこのノロマ!」
課長が私に叫んだ。
……しんどい。しんどい、けど。
自分の机に座って、こっそりとスマホの壁紙を見る。そこには動物園の時に撮ったエリナの写真がある。
家に帰ったらエリナがいる。きっと眠ってしまっているのだろう。おそらくは今日も遅くなるから。だけど、家に彼女がいるという事実だけで私は頑張れる気がした。
っと、大事なことを忘れるところだった。
「ありがとう、大橋さん」
椅子のキャスターを使って、彼女のところに行く。
「っぁ……いえ、ちょっと課長の言動が酷すぎたので、見てられなくて。病欠だって言っておけば課長も強く言わないだろうって思ってたんですけどねー」
「誤算だったわね。でも正直どんな言い訳してもこうなってた気もするし、気に病む事はないわよ」
「まぁ、それはそうですけど」
大橋さんがいかにも不機嫌といった様子を見せる。その不機嫌の対象はやはり課長だろう。
「さ、仕事しましょう。ダラダラしてたらまた怒鳴られるわ」
「ですね」
自分の机に戻る。
仕事は山積みだ。さっさと終わらせてしまいたいとそう思った。
時刻は十二時を回る。時計の針がピッタリその時間になったタイミングで、
「先輩、お昼買いに行きましょう。さぁさぁ、早く早く!」
大橋さんが私の腕を掴んで強引に立たせた。周囲に目線を向けると、課長がちょうどこちらに来ようとしているところだった。
さて、大橋さんか課長か──いや、悩む必要全くないわ、これ。
私は大橋さんの言いなりに立ち上がり、オフィスを出る。そのまま雑居ビルの外に連れ出されたところで、
「あっぶないなぁ。あれは絶対昼休憩取らせないために近づいてきたに違いないですよ」
「それ、憶測でしょう? あんまりそう言うこというものじゃないわ」
私は大橋さんの耳に口を近づけ、
「万一聞かれたらあなたの立場が悪くなるわ。そういう事はオフィスからもう少し離れてからね」
私の場合、すでに立場が最悪に近いので問題はないのだ。ただ、大橋さんは課長に気に入られている。その事に良い気はしないものの、働きやすさで言えばそっちの方が断然良いだろう。
「って、大橋さん? 聞いてる?」
大橋さんは何が原因かわからないけど顔が真っ赤だ。熱でもあるのだろうか、とおでこをくっ付けてみる。
うん、体温は正常値だ、たぶん。
でも、顔はどんどん赤くなって茹蛸みたいになっていく。
「せ、先輩……近いです……」
やっと口を開いたと思えば、そんなことを言った。なるほど、往来で耳打ちは確かに少し恥ずかしいかもしれない。
私は普通の距離感に戻り、
「ごめんなさい、恥ずかしかったわよね」
謝った。それに対して大橋さんは、何やらモゴモゴと呟いた。
「……に、はず……じゃな……」
うまく聞き取れなかったので、何と言ったかは不明だった。
「で、結局何だったんですか、昨日の」
コンビニでお弁当を選びながら、大橋さんがそう訊いてくる。
「昨日の? あぁ、ほんとにちょっとした、だけど外せない用事だったのよ」
「身内に不幸とかそういうんじゃないんですね」
「違うわよ。第一、私実家と縁切ってるっていうか、絶縁したから」
「絶縁? また変な言い回ししますね。まぁ、そこはいっか。で、結局そのちょっとした用事って?」
「まぁ、そんな大したことじゃないのよ」
私は親子丼を棚から取る。
「ただ、同居人が増えたってだけで」
「……はい?」
と、大橋さんが手に持っていたお弁当を落とす。幸い中身は無事みたいだ。
「同居人……同居人って、あの同居人ですか? 一つ屋根の下ってあの」
「その同居人以外あるんなら教えて欲しいわね。って、言い方に何か含みを感じるわね」
まぁ、その相手がエリナだとは口が裂けても言えない。だって、二人はそういう関係で、私とエリナも最初はそういう関係だったのだから。
「べ、別にそんな事はないですよ、えぇ」
「そうかしら。その言い方だといやらしいわよ」
「……そうかもですけど……その人って男の人ですか?」
「男の人と同居する度胸は私にはないわね」
……まぁ、相手が女の子でも迫られはするんだけど。というか、今思うとだいぶ惜しいことをしたなぁと思ってしまう。
エリナを抱くチャンスを不意にした、とか思うと、あの時の自分を叱りたいとか、けど同時にあの時抱いていたら今の私は罪悪感から叱るどころか怒鳴りつけていてもおかしくないわけで。
結論、まぁ抱かなくてよかったということで。
「……そっか、女の人なんだ……なら一安心かな」
「一安心って、何が?」
「あー、と。その、なんだろう」
大橋さんの目が泳ぐ。言い訳を探している子供みたいだ。
「あっ、そろそろ戻らないと食べる時間無くなっちゃう!」
話、逸らされた。露骨すぎないかしら、大橋さん?
というか、結局彼女は何を言いたかったのだろうか。何が安心だったのだろうか。謎は深まるばかりだった。
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