第33話 家事
澪おねーさんが仕事に行ってから、数時間が経過した。その間、部屋の掃除を行ったり洗濯をしにコインランドリーに行ったりして過ごしていた。
とりわけ掃除が大変だった。ろくに掃除されていない床は埃がこびりついていたし、シンクには水垢がたんまりあったから。
よくこんなので生活できていたな、と悪い意味で感心してしまった。
「あ、お昼食べなくちゃ」
そこでようやく昼飯時を過ぎているという事に気が付いた。財布を持って部屋を出る。澪おねーさんから貰った合い鍵で戸締りして、何を食べようかなと考える。
昨日の買い出しで買ったものは、あくまでも二人分の食材だった。だから一人分の食事を考えるのなら、また買い出しに行かなくてはならない。それ以外の問題もあるし。
この辺にスーパーマーケットは二軒、どちらも繁華街のすぐそばにある。というか、一軒は繁華街の中に建てられている。もう一軒は繁華街の外れ。わたしが行くのは繁華街の外れの方にあるスーパーマーケットだ。
アパートの敷地から出て、わたしは振り返る。新しい家は、居室一部屋の小さなアパートだった。けど、バストイレ別というそこそこの好物件でもあった。駐車場もあるし、ちょっと駅まで遠いのが難点ぐらいか。
昼間の住宅地は閑散としていた。時々歩く老人を見かけるぐらい。本当に人気がない。
歩いていると、保育園があった。子供たちの元気な声と、下手なハーモニカの音。懐かしいなあ、なんて思いながら通り過ぎる。
こうして歩いていると、この街もなかなか悪くない。
澪おねーさんには話さなかったけど、わたしはこの街の産まれじゃない。ここより電車で一時間半ほどの街で生まれ育った。工業地帯と住宅地が半々、ぐらいの街だったように思う。
母親は自殺して、それからわたしはその記憶から逃げるようにこの街に来た。別にどこでもよかったのだけど、繁華街が電車の窓から見えたことが一番の決め手だったと思う。妙に輝いて見えた繁華街に憧れのようなものを抱いた。最も、それはすぐに幻想だと知るのだけど。
色々考えながら歩いていると、スマホがヴ、ヴ、ヴと振動した。立ち止まって確認する。
『こんにちは! 久しぶりだね、エナ子ちゃん』
最初の一文で、送り主が誰かを判別する。エナ子という名前でわたしを呼ぶのは、佐久間さんしか居ない。
これはリスクヘッジの一つ。一人一人別の名前を名乗る事で、万が一トラブルが起きた時の被害を分散できると考えた。結果、わたしの名前が無限に増えて混乱するだけだったけど。
まぁ、そこは問題なかった。一度名前を伝えれば、相手が勝手に呼んでくれるから。
わたしはメールの続きを確認する。
『突然でごめんなんだけど、久しぶりに会いたくなっちゃって。今夜会えないかな?』
要約すればそういうメールだ。会いたくなった、はセックスしたくなったに置き換えて読んでも差し支えないだろう。
「面倒くさいなぁ」
数日前までのわたしなら、即座に良いよと返信していた。だけど、今のわたしにそんなことをするつもりはない。
その旨を簡潔にまとめてメールする。
メールを送り終わった後で、わたしは思う。わたしと肉体関係を持った人物は多く、これからもこうやって会いたいってメールやチャットを貰うのだろう。そのたびに断っていく。正直面倒くさいから、今すぐ全員にメールを送ってやろうかと思う。
思うけど、
「いつまでもあの家に居られるって保証もないしなぁ」
だから、全部の繋がりを切ってしまうのは少し良くない。万一の時はまた売春をすることになるのかもしれないのだから。
そうならないといいけれど、と思う。
無意識に、首元を触っていた。そこにはまだ痣が残っていた。
スーパーマーケットで、わたしはいくつかの食材を買った。わたしの昼飯用の食材たちだ。どう調理するかは未定、というかわたし自身料理の経験がほとんどないから、ある食材とレシピを照らし合わせるしかない。そのためにも食材は多めに持っておきたい。
澪おねーさんの部屋に帰ると、時刻は二時過ぎ。簡単なものを調理をしたら二時半ぐらいか。
冷蔵庫、澪おねーさん持ってないんだよなあと思いながら食材を纏めておく。頻繁に買い出しに行かなくちゃいけなくなるから、安い奴でもいいから買ってもらうべきか。置く場所あるかな、とか考える。
とりあえず、お昼ご飯。小さい鍋でうどんをゆで始める。それをめんつゆで食べることにした。それぐらいなら簡単にできるから。
茹でて、湯切りして食べる。一連の流れを終わらせたらお皿や鍋を洗って拭く。そしたら夕食のレシピを考える――と、
『澪おねーさん、今日何時に帰れそう?』
とチャットアプリで連絡をしておく。時間を把握しておかなければ、出来立てを食べてもらえない。
返信を待っている間、床に座り込んでぼうっと天井を見上げる。有体に言えば体力が尽きた。
やらなくちゃいけない家事って結構多いんだな、ってそう思う。わたしの母親は、こんなことを毎日やりながら、パートしてお金を稼いでいたんだ。そう思うと、なるほど確かにメンタル的にしんどい。
無論、慣れればある程度は効率化できるだろう。だけど、それは今すぐどうこうって話じゃない。しばらくは体力的にもキツイ生活になるだろう。
「でも、澪おねーさんがそれで楽できるんなら」
彼女には恩がある。一朝一夜では返せない恩が。だから、これぐらい全然平気だ。それに、澪おねーさんが喜んでくれるのならそれはわたしとしても嬉しい。
今朝の、自然な彼女の笑顔。それはわたしが今までしてきたような、芝居の笑顔じゃなかった。
「憧れちゃったのかなぁ」
要するに、そういう事なんだと思う。あの笑顔が眩しかったから、わたしは憧れた。今まで売春をやってきて、いろんな芝居をしてきた。もちろんそれは、男の人を――時々女の人も――悦ばせるためのもので、そのための笑顔だって練習した。
そうするうちに、わたしは自然に笑う事が無くなっていったような気がする。むろんこれは主観で、もしかしたらどっかのタイミングで笑えているのかもしれないけど。
気が付いたらチャットアプリに通知が来ていた。わたしははやる気持ちでアプリを開いた。
『ごめん十時過ぎになりそう。先に寝てて』
そしてその返答に肩を落とす。
「そっかぁ、十時過ぎかぁ」
さすがにその時間には起きていられない。きっと体力が尽きている事だろう。だけど、それでも澪おねーさんを出迎えたいと思った。
それに、今までは夜遅くまで起きていた――もちろんその分遅くまで寝なおしたりしてたけど――わけだし、まぁ頑張ればいける。
「さ、とりあえずご飯の準備しよう。冷えても美味しい奴がいいよね」
料理本を取り出す。さて、何を作ろうかな――。
そして、十時半。
「ただいま――って、もう寝てるよね」
澪おねーさんが小声でつぶやく。わたしが寝ているであろうという気遣いが嬉しい。だけど、
「おかえり、澪おねーさん」
眠気を堪えてそう返事する。
「まだ起きていたの?」
「うん、澪おねーさんを出迎えたくて。でもゴメン、もう限界」
寝袋に潜り込む。眠気から頭が痛くて、とんでもない事になっていた。
「おやすみ、澪おねーさん」
最後に彼女の顔を見つめて、それから目を閉じた。
頭に、優しい感覚がした。
「ありがとう、エリナちゃん」
優しく撫でられて、わたしの意識は深い所に落ちていった――。
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