第32話 メイクアップ

 昏い世界で、目を覚ます。慣れきった寝袋の窮屈さを感じる。

 モゾモゾと腕を動かして、寝袋のチャックを開けた。少しの冷気が寝袋に入り込んできて寒さを感じる。室内はやはりテントより暖かいとか、ぼんやりと思いながら上体を起こす。

 枕元のスマホを開く。時刻は午前五時半。いつもよりちょっと早い時間だ。


「くぁ……起きるかぁ」


 寝袋から這い出る。まるでミノムシのよう。

 まだ澪おねーさんが寝ているから、電気は点けられない。カーテン越しの昏い光を頼りに、寝袋を隅に退ける。


「……澪おねーさん」


 視界に、彼女が入る。ベッドの中で死んだように眠っている彼女。


『傷を癒すためにもっと自分を傷つけるのはダメよ』


 昨夜の彼女の言葉が思い出される。こちらを本当に心配して、本気で叱ってくれていた。

 それが不思議と嫌じゃなかった。叱られるというのは嫌な事なはずなのに、彼女の言葉は素直に受け止められた。

 彼女の寝顔を見つめる。整った顔立ち、少し荒れた唇。そして目の下の隈。ちゃんとスキンケアをしてお化粧をすれば、間違いなくモテる。本人はそう思ってないみたいだけど。

 ふと、イタズラ心が生じた。人差し指で彼女の頬を優しく突っつく。柔らかな肌の感覚がした。


「ふふ、本当に可愛い人」


 普段はどこか影があって、それでいてカッコいい。そんな美人さんである澪おねーさんが、今は無防備に眠っている。あどけない、子供のような表情で。

 ギャップ萌えという言葉がこの世界にはあるらしい。となれば、きっとそれはこのためにあるのだ。


「さ、ご飯作ろ」


 澪おねーさんから離れる。食材は昨日の買い出しで買ってある。レシピ本も買ってもらった。

 今日は昨日のような失態は演じない。完璧な朝食を作ってみせる。そう思いながらエプロンを巻いた。




「澪おねーさん、ごめん。失敗しちゃった」


 私たちの目の前には、黒焦げになった鮭の塩焼きがあった。机の上に置かれたそれを、最初彼女はギョッとした目で見た。


「ご飯も硬いし、鮭はこんなだし……その、無理して食べなくても──」

「いただきます」


 私の言葉を遮って、澪おねーさんがそう言った。鮭の黒焼けを箸で掴んで、口に運ぶ。苦いのだろう、顔を顰めた。


「こんなの食べたら体に悪いよ。ほら、今日は外食しよ、ね?」

「ううん、せっかく作ってくれたんだから、食べるわ」


 どうしてこう、彼女はそんな事を言うんだろう。ちょっとカッコいいな、とか思ってしまった。

 そう、カッコいいのだ。澪おねーさんはカッコいい。それは見た目のみならず、言動までそうなのだ。

 動物園の時、ナンパされていた私を助けてくれた。その時に彼女のそういった一面に気付かされた。


「……ごめんなさい、失敗しちゃって」

「いいわよ、気にしなくて」


 彼女は優しくそう言ってくれた。


「第一、いきなり完璧なんて無理でしょう?」

「うん……ありがと、そう言ってくれて」

「それに、今まであんな食事だったわけだから、ご飯作ってくれただけでもありがたいわ」


 彼女はチラリと部屋の隅を見る。そこにはプロテインバーが入っているビニール袋。

 あんな生活をしていたら、いつ倒れるか──というか、その結果多少の出血で倒れたんだった。


「そっか。じゃあこれからもご飯作るね。この際、澪おねーさんの食事をちゃんとしたのにするから……まぁ、その前に料理をうまくできるように何なくちゃいけないんだけどさ」

「そうね、楽しみにしてるわ──と、そろそろ準備しないと」


 澪おねーさんが食事を終わらせて立ち上がる。いつのまにか黒焦げの鮭を食い切っていた。


「ごちそうさまでした」


 澪おねーさんが食器を流しに持っていく。


「洗っておくから、澪おねーさんは仕事の準備をしてて。お化粧とかする準備あるでしょ?」

「化粧? 別にしていないけど……」


 ……なんて?

 今この人はなんて言った?

 化粧をしていないと言った。なんの冗談だ、と思う。だってこんなにも美人なのに、なんで化粧をしていないんだ。


「澪おねーさん、正座」

「え?」

「え、じゃない正座する!」


 怒鳴りながら、カバンを引き寄せる。


「いいから正座! いい、澪おねーさんは美人だけど、それだけじゃあくまでも宝石の原石でしかないんだよ」

「けど、お化粧なんてやった事ほとんどないし……」

「教えてあげるから、さあ行くよ」


 と、化粧ポーチから各種化粧品を取り出す。床に並べていき、


「まずは保湿。このクリームを使って、全体に馴染ませるように」


 手のひらにフェイスクリームを取り、澪おねーさんの顔に塗っていく。少しくすぐったそうにしていた。


「顔ガサガサ、手入れちゃんとしていないでしょ」

「だって、忙しいから……」

「そうかもしれないけどさ、それでもちゃんとしないとダメだよ。将来後悔するのは澪おねーさんなんだから」


 次に下地。本来なら血色のあまり良くない澪おねーさんに合わせて、ピンク系統の色を使いたいところだけど、わたしの持っているのはナチュラルに見えるらしいベージュ色。

 とにかくそれも全体に塗っていく。それから、ファンデーション。これも普段使っているやつを流用する。


「動物園の時、澪おねーさんメイクしていたよね? 普段からすればいいのに」

「あれは、その……何度もやり直したのよ」

「あぁ、そういう……肌荒れそうだなぁ、それ」


 ファンデーション終わり。コンシーラーはほとんど使わなくても良さそう。こんなにボロボロの肌なのに、ちょっとした作業だけで綺麗に見えるのだから美人というのは徳だ。

 目の下の隈にだけコンシーラーを塗って、それから頬に濃い色のファンデーションを塗る。

 それからフェイスパウダーで固定。最後にまつ毛に少しメイクを施して──。


「よし、できた。はい、鏡」


 小さな手鏡を渡す。それから全体をよく確認した。


「これが、私?」


 しっかりと化粧をした澪おねーさんは、原石がちゃんと磨かれた宝石みたいになっていた。ただでさえ美人な彼女が、より美しく見えた。

 ──チリ、と胸の奥が焦がされるような錯覚。なんなのだろうか、この感覚は。


「ちゃんと化粧すればこれぐらいにはなるんだよ」


 錯覚を押し殺して、そう言った。きっとこれは、芽生えさせてはいけない感情だ。


「そっか、こうなるんだ私」


 澪おねーさんがはにかむ。ごく自然な笑顔に、私はつい見惚れてしまった。あぁ、彼女はこんなふうに笑う人だったんだ。


「ありがとう、エリナちゃん」

「いいよ、別に。美人なのにもったいないなーって思っただけだから。ほら、そろそろ行かないといけないんじゃない?」


 見惚れていた恥ずかしさを隠すように時計を指差す。


「あっ、本当。じゃあ行ってくるわ」


 澪おねーさんはカバンを手に取り、部屋を出ていった。

 カチ、カチ、カチと時計の音がする。


「はぁ、ほんと……澪おねーさん、ヤバイわ。磨けば磨くほど輝く原石じゃん、あんなの。ズルイよ……」


 机に突っ伏してそう呟く。

 私にはないものを彼女は持っている。それが信じられないぐらい羨ましいと、心底そう思った。

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