第9話 カテゴリー
無言で部屋に戻る。時刻は十時前。今日は早く終わった方か。
机にカバンを放り投げる。ベッドに倒れ込むように寝転がると、瞬時に意識が刈り取られそうになる。
「……あー、服着替えないと」
スーツがシワになるといけない。重たい体を起こして、壁にかけられた着替えを見る。
そこに服は一着もなかった。寝巻きはともかく、明日のスーツもないのでは問題だ。
仕方がない。私はカバンから財布をとると、部屋の隅に放置されている服を、これまた部屋の隅で役割を待っているカゴに入れて部屋を出る。
冷え込んだ空気が、目に刺さる。今日はとりわけ冷え込む日だ、とぼんやり思う。
早くこの冷気から逃げたくて、早足で暗い街を進む。
繁華街の光が届いている。ほんのすぐ近くにあるのに、あまりにも遠く感じる。手の届かない眩さに感じられた。
だからこそ、あの場所で女子高生を買ったという事実がにわかには信じられない。曖昧な夢だった、と言われても信じてしまいそう。
そう思いながら、繁華街とは反対側に歩いていく。踏切を超え、ちょっと行くと、一際明るい建物があった。
24Hと看板に書かれたコインランドリー。目的地はここだ。洗濯機を持っていない私は、定期的に通う必要がある。正直面倒くさいと思う。
だからさっさと終わらせて、帰って寝ようと思った。
乾燥まで終わった服を乱暴にカゴに突っ込んでいく。丁寧に畳むぐらいなら寝ていたい。どうせ帰ったら壁に掛けるし。
突然ガラガラ、とコインランドリーの扉が開けられた。
「あれ、澪おねーさん?」
背後からそう呼ぶ声。こんな呼び方をする人を他に知らない。
「エリナちゃん?」
確認するように声を出す。それと同時に振り向くと、そこには相変わらず制服姿のエリナが居た。
「やっぱり澪おねーさんだ。奇遇だね」
突然の再会に驚くのと、瞬間脳裏によぎった彼女の裸体に、私は言葉を失った。
彼女はもちろんそんな事を知るわけもなく、平然と会話を続けた。
「いやぁ、こんなところのコインランドリー、わたし以外に知り合いが使っているとは思わなかったなぁ」
「え、ええ。ここ近いから」
「そうなんだ」
エリナが洗濯機の中に自身の衣類を入れていく。その服の大半が、学生服だった。
「おねーさんは、もう帰るの?」
「洗濯、終わったから」
「ふーん」
エリナは財布から硬貨を取り出して、投入口に入れていく。慣れた手つきだ。
「ね、暇なら少しお話ししない? お金はいらないからさ」
一通り操作し終えた彼女がそう言った。踊るような足取りで私の近くの椅子に座り、横に座ってとジェスチャーする。
まぁ、特別拒絶する理由もなし。私も座る。
「おねーさん、体調悪い?」
開口一番、エリナはそう言った。
「あー、まぁ。二日酔いがまだ少しね」
「お酒飲むんだ。お酒って美味しいの?」
「味だけなら美味しいわよ。私は弱いからあんまり好きじゃないけど」
「そっか。好きだけど嫌いって事なんだ。わたしは飲んだ事ないからわかんないけど。あーあ、早く大人になりたいなぁ」
エリナは心底からそう思っているらしい。言葉に願望が滲んでいる。
「良いものじゃないわよ、大人なんて」
純粋さを無くし、社会の中で自分さえも見失っていきそうになる。それが大人になるという事。歳を重ねるという事。
「そうかなぁ。自由じゃん。何をするのも自由。責任は自分にあるかもしれないけどさ」
そう言うエリナの横顔は、あまりにも純粋だった。なんでそこまで未来を──大人になるという事にワクワクできるのか、それがわからなかった。
けど、何よりも。なぜこんなにも純粋な子が、売春なんてしているんだという疑問を抱いてしまった。
「何で、エリナは──」
それを訊こうとして、やめた。あんまり訊かれたくないことだろうから。
「体売っているのかって、聞きたいんでしょ?」
「……何でわかったの?」
「興味本位とかで訊こうとする人って結構いるから。何となくそうなんだろうなぁって」
「そう、なの」
「そうなんだよ。で、おねーさんは何で訊こうと思ったの?」
なんで、か。興味本位? それもある。けど、それ以上に──。
「羨ましいほどに純粋だったから、かな。大人になるって事に夢を抱いているって感じがして、だから……」
「だから、そんな純粋な子が、なんで体を売っているのかが気になった?」
首肯する。一番の理由はやっぱりそれだった。
「興味本位だけで訊く大人よりよっぽど立派な理由だと思う。うん、その理由なら訊かれても嫌じゃないかな。でも、秘密」
今はね、と彼女は付け加えた。
「そっか、そうよね。話せる事じゃないわよね。ごめんなさい」
「謝らなくても良いよ。言ったでしょ、嫌じゃないって」
と、なぜかエリナはバツの悪そうな顔をして、
「そうだなぁ。じゃ、代わりのお話をしてあげる」
と言った。それからコインランドリーを利用している人が他にいない事を確認し、
「多分おねーさんが気になっている事、無意識下で知りたがっていた事を教えてあげる。それは、わたしを買う大人達の行動理由について」
それを聞いて、心臓が跳ね上がるような錯覚を覚えた。言外に、アンタを責めてやると言われた気がしたから。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼女は話を続ける。
「まず第一に、わたしを買う事で、買った相手にどんなメリットがあると思う?」
「セックスができること?」
というか、それ以外にないんじゃないか、普通は。
「うーん、五十点かな。正確に言えば、女子高生とセックスができる。性欲そのものを否定はしないし、セックスをしてそれを発散しようとするのもごく正常な事。だけど、それだけなら風俗にでも行けばいい」
まるで、誰かが乗り移ったかのように淡々と彼女は話す。台本を読んでいるような話し方だ。
「ここで問題となるのは、女子高生とセックスしたいっていう欲求。女子高生に欲情しているという事実は、普通じゃない。普通じゃないから、発散のしようがない。ここまではわかる?」
「まぁ、なんとなく。女子高生を抱きたいって思っても難しいって事?」
「そう。話を少しずらすね。女子高生っていうのは一種の期間限定品なの。エリナという人間が女子高生でいられる期間は三年だけ。その三年の間しか味わえないのに、法律がそれを許さない。けれど抱きたい。そういう人を相手にしているのがわたしなの」
そんなの、おかしい。法律云々もそうだけど、まず何よりも倫理的におかしい。そんな若い子を喰い物にしようとしている、という事は、理性ある生物として狂っている。
じゃあ、それをしている私はどうなのか。性行為には至っていなくても、女子高生を買っているという時点で同類なのではないのか。
「何かをするには対価がいる。わたしはセックスするという対価を支払う事で金銭を得ている。逆に、大人達は金銭を支払うのと、警察に捕まるリスクという対価を支払う事で女子高生とセックスしているの」
意味は理解できる。理性では受け入れているが、本能では気持ち悪いと拒絶していた。自身も同じ、その気持ち悪い人間の一人だというのに。
「ま、対価の話あたりは受け売りも混じっているんだけど。なんでそこまでしてお金が欲しいのかは、今はまだ秘密ね」
その言葉は、いつもの彼女と同じトーンで、それが妙に安心できた。
「え、えぇ。でも、なんで私にその話を?」
「サービス。おねーさん、お金だけ払って、わたしを抱こうとはしなかったから、その分のね」
それは結果論だ。結局私は、彼女に欲情しているクズなのだから。
「澪おねーさんだけだよ、抱こうとしなかったのは」
「それは……同性だし……」
「女の人とも寝たことあるけどね。っと、ごめんねこんな時間まで。おねーさん明日も仕事でしょ?」
エリナが壁に掛けられた時計を見てそう言った。私もそちらを見る。時刻は午後十一時過ぎ。
「そうね、ええ。じゃあ帰るわ」
「うん。またね、バイバイ」
胸に残ったのは、強烈な罪悪感。女子高生を金で買ったという事実を悔いる感情だけだった。
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