第10話 無痛
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前書き
本話には一部精神的負荷のかかる恐れがあるシーンが含まれています。ご留意ください。
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夢を見ている。壊れかけのおもちゃを持っている。クマのぬいぐるみだ。両腕と両足が強引に引きちぎられ、中のワタが見えている。
懐かしい記憶だ。自身の罪を、ぬいぐるみが肩代わりしている。
黒塗りの怒号。言語としてあまりにも拙い。感情──嫌悪感や怒りだけを表層に表した、醜い言葉の数々。
夢の中の私は泣いて、ぬいぐるみに縋っている。ああ、なんて惨めな事なのだろうか。
犯しもしていない罪の責任を取らされている、哀れな子供。それが私。
けれども子供の頃の私は、罪の所在など知る由もなく、身に覚えのない罪悪感に押しつぶされてしまいそうになっていた。
なぜ、こうなったのか。
なぜ、こうならないければいけなかったのか。
なぜ、なぜ、なぜ──。
「ぁ」
朝日を浴びて、目を覚ます。ずいぶんと部屋が眩しいと感じながら、上体を起こす。
頬を伝う、温かなモノ。無意識下からの感情の発露。これはその表れ。つまり、涙。
「……嫌な夢……」
罪を背負った子供の夢。背負わされたと言い換えても成立するだろう。
いわゆる家庭内暴力ってヤツだ。そのトラウマが、再発した。
理由は明白だ。単純な罪悪感。子供の頃に背負わされた、私が本来背負うはずのなかった罪と、今胸の中にある罪悪感がリンクして、過去に私の精神を引き込んだ。
「……大丈夫。ここにあの女はいない。いないんだから、大丈夫」
自分に言い聞かせる。大丈夫、落ち着いて。落ち着いて、落ち着いて。
理性とは裏腹に感情は暴れ始めて、頭の中が壊れていく。心拍数が際限なく上がっていき、眼球が狂ったように動き出す。
「──は、ぁ、はー、ぁ」
息ができない。全身を駆け巡り、酸素を運ぶはずの血液が、その役割を放棄したみたい。
シカイニナニカガウツル。
体が震える。中心点、肉体の芯から全身に向かって凍結していくみたい。
同時に、体温が急激に上昇していくような感覚もした。
ソレヲテニトッタ。
見えない、聞こえない。意識が刈り取られそう。
ソウシテワタシハ。
けど、大丈夫。なぜだか知らないけど、どんどん思考はクリアになっていく。ごちゃ混ぜになった脳漿が整理されていくような錯覚。
何か大事なモノがどんどん流れていくような感覚もしているけれど、全ては些事。
この解放感、この快楽。それに勝るものなど有りはしないのだから──。
「おはようございま──先輩、大丈夫ですか⁉︎」
開口一番、大橋さんがそう叫んだ。場所はオフィス、時間はいつも通りだ。
「おはよう、大橋さん。オフィスでは静かにね」
彼女の大声をやんわりと叱る。視線を集めてしまっているし、何より迷惑だ。
「ちょ、そんなこと言っている場合ですか! どうしたんですかその怪我!」
「怪我? 私はどこも怪我なんてしていないけど」
「でも、先輩……」
彼女は何か辛いものを見るような目で私を見る。厳密に言えば、私の左手あたりか。
「ああ、もう。今日は先輩帰ってください。で、ちゃんと病院行ってきてください」
「病院って、大袈裟ねぇ。私はどこも悪くないわよ」
どうも話が噛み合わない。彼女は私に何かを見ているらしいけど、私はその何かを理解していない。
「大袈裟なんかじゃ! 先輩、気づいてないんですか?」
大橋さんは私の腕を掴んで持ち上げた。
「こんなに滲んでいて、気が付かないなんて普通ないですよ」
スーツの裾を捲っていく。
「……とりあえず止血しないと」
彼女はハンカチを取り出して、私の腕に巻きつける。花柄が赤に染まっていく。
なぜこんな色になるのか、わからない。これではまるで、私が怪我をしているみたい。
強めに巻きつけられたハンカチが痛い。怪我をしているのならもっと痛いはずだから、やっぱり怪我なんてしていない。
していないはずなのに、なぜかハンカチの染みは広がっていく。際限なく、汚染していく。
「おい! さっさと仕事しろ!」
オフィスの奥から怒号が聞こえた。課長がこちらを睨んでいる。
まぁ、これに関しては始業時間を過ぎていても仕事を始められていない私が悪いので、素直にすみませんと謝っておく。この際、大橋さんの奇行が発端なのは目を瞑ろう。
その大橋さんが声を荒げようとしたのか口を開き、
「大橋さん、もう良いから。もう良いから、仕事しましょう」
私はそう言って彼女を椅子に座らせる。ついで私もパソコンの電源を入れた。
「でも……」
「ありがとう、大橋さん。でも本当に大丈夫だから」
目線をハンカチに落とす。真っ赤に染まったそれは、すでに花柄とは無縁のものになってしまっていた。
「先輩、ご飯食べませんか?」
昼休み。と言っても納期やらなんやらがあるから、実質仕事の時間なんだけれども、一応昼休みの時間。大橋さんが手弁当を持ってそう言った。
「ごめんなさい。今日は食事を摂らないの」
目線をディスプレイに向ける。胸の中には、エリナに言われた事が残っていた。ご飯をちゃんと食べろという言葉が。
それを奥底にしまい込んで、
「仕事しなくちゃ」
「こんな時でも仕事ですか」
「今は忙しいから」
ポタリ、と赤い雫がキーボードに落ちる。さっきからこうだ。まるで血のような雫がハンカチから垂れて、それを拭く作業が加わったせいで仕事が押している。
「……先輩、おかしいですよ。なんでそんな状態で平気でいられるのか、あたしにはわかりません」
「おかしいって……私は正常よ」
「正常な人間は! 正常な人間は、そんな出血をしていて気が付かないなんてあり得ません」
震える声で大橋さんが言った。大橋さんがここまで声を荒げるのは初めて見た。
「今は課長も席を外していますし、今のうちに病院に行きますよ」
大橋さんは私を強引に立たせた。瞬間、全身から力が抜ける。
「あれ、変だな……立ちくらみかな」
「血が足りてないんです」
体を引きずる私を、彼女は強引にオフィスから連れ出す。
「タクシーを呼んでありますから。先輩、あまりにも顔色が悪いですし、付き添います」
「いいよ、そんなの。仕事に戻って」
彼女もだいぶタスクを抱え込んでいるはずだし、こんな事で仕事を停滞させるわけにはいかない。
「ほら、みんなにも迷惑がかかるでしょう?」
「あんな会社、どうでもいいですよ」
ボソリと大橋さんが言った。その意味を理解する前に、屋外に出た。
そこには緑のタクシーが止まっていた。私は強引に押し込まれ、
「電話した大橋です。総合病院までお願いします」
隣に大橋さんが座った。
……本格的に、意識が保てなくなってきた。眠気が襲ってきて、大橋さんに寄りかかってしまった。
というか、もう無理。意識が暗闇に沈んでいき、沈んでいき……。
「あ、起きた」
目を覚ますと、エリナが目の前にいた。
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