第8話 先輩と後輩

 喉の渇きで目を覚ます。硬いベッドの感覚がして、少し懐かしさを覚えた。


「ん……あ、っ」


 体を起こすと、頭痛がした。それにめちゃくちゃ気持ち悪い。この感覚は、


「やらかした……」


 記憶を辿るまでもない。お酒を飲んだからだ。いわゆる二日酔い。

 これだからお酒は飲みたくなかったのだ。翌日酷いことになるから。


「水……」


 焼きついたような喉を潤したくて、私はベッドから降りる。ここは私の家──厳密にいえばアパートの私の部屋だ。たった一つしかない居室きょしつで、ベッドと小さな机ぐらいしか家具と呼べるものはない。

 シンクの蛇口から水を出し、コップに注ぐ。カルキの臭いしかしない水が体に染み渡った。

 濁点の付いた音が喉から出た気がする。それぐらい体を潤したのだ。

 そこで、はてと思う。私はどうやって帰ってきたのだろうか。


「大橋さん、かな」


 普通に考えて、それ以外ないだろう。彼女がどこに住んでいるのかは知らないが、手間をかけさせた。

 机の上に置かれたカバンからスマホを取り出す。やや充電が心許ないそれを開いて、チャットアプリを立ち上げる。


『おはようございます、先輩。免許証を見て勝手に部屋に上がらせてもらいました。すみません』


 すでに大橋さんからメッセージの着信があった。


『気にしないで、感謝してるわ』


 そう返信して、私は出社の準備を始めた。




「酷い顔ですね、先輩」

「そっちもね」


 おはようと挨拶し、自身のデスクに座った直後の会話がこれである。


「朝から頭が痛いのよ」

「二日酔いですか? こっちは寝不足です。寝付けなくて」

「お酒飲んだのに?」

「飲んだのに」


 はぁ、とオフィスにため息が二つ。


「とりあえず、仕事しましょうか」


 パソコンを立ち上げる。今日は──。


「おーう、おはよーさん」


 ──最悪な一日確定。

 ちなみに年間の八割ほどは最悪な一日だ。


「お、今日も可愛いねぇかな子くん」


 カバンからスマホを出して、インカメラ越しに大橋さんの表情を確認する。すごく嫌そうな表情をしていた。女の子がする表情じゃないわ、と思う。

 一通り大橋さんを舐め回すように見た後、課長は窓際の席についた。パソコンを立ち上げて、仕事を始める。窓に反射する画面から、業務内容が見える。

 ……課長さん、ソリティアを仕事と言い張るのは無理があると思う。


「ま、そうしている間は平和だから良いけど」


 特に今日は頭痛が酷いので、関わりたくないのだ。


「先輩、コーヒー飲みます?」


 突然、大橋さんが立ち上がった。手で話がある、とジェスチャーしていた。


「私も行くわ」


 私も立ち上がって、オフィスを出る。

 オフィスの外、ボロい廊下に自動販売機がある。赤色の自販機で、コーラやスポーツドリンク、缶コーヒーなどが販売されている。


「で、話って何かしら」


 私は硬貨を自動販売機に投入しながら問う。ボタンを押すと、音を立てて缶コーヒーが落ちてきた。


「いや、たいしたことじゃないんですけどね。昨日の事覚えているかなーって。電車の中での事」

「電車の? 酔ってダル絡みしたぐらいしか覚えていないけど……あー、ごめんなさい。面倒だったでしょう?」

「いえいえ、全然全然。むしろレアなもの見れてラッキーって感じです」

「変なこと言うのね──カフェラテでよかったかしら?」


 大橋さんはいつもカフェラテを飲んでいたっけと思い出す。


「覚えてくれていたんですね、嬉しいです」


 たったそれだけの事なのに、大橋さんは上機嫌になって頷く。


「けど、覚えていないんですか。残念です」

「うん?」


 何かあったっけ。だる絡みして、彼女を枕代わりにして寝ちゃったぐらいしか覚えていない。


「ま、覚えていないんなら良いです。あたしは諦めませんから」


 ますます疑問符が増えていく。彼女の言っている事が、いまいち理解できていない。


「コーヒー、ありがとうございます。先に戻りますね」


 彼女は缶を数回振って、オフィスに戻って行った。


「うーん、なんだったんだろ」


 疑問符を吐き出すように呟いて、コーヒーに口をつけた。




「まだソリティアやってるよ……」


 私はボソリと呟いた。午後三時ごろ、仕事の進捗は微妙なところだ。

 二本目の缶コーヒーを空にして、なぜこの人物が課長になれているのかについての考察をする。

 まぁ、割と簡単な問題だ。彼の親族がこの会社の経営者ってだけ。だからソリティアやっててもお咎めなし。

 やっぱり、ズルい。あー、もう。人の世は不公平まみれだ。

 とそこで、あることを思い出す。私はスマホを取り出して、コッソリとカメラを起動する。

 

『あんだけパワハラされてるんすから、証拠集めて上に出せば──』


 録画モードで撮影開始。


『なんとかなると思うんすけどね』


 いつか使えるかもしれないから、録画する。

 ほんの気の迷いだ。そんな度胸もないくせに。けど、証拠集めぐらいなら特にバレずにやれるはずだ。


「ん、これぐらいで良いかな」


 ある程度やったら、撮影を切り上げる。これ以上は疑われかねないから。


「せんぱーい、ここなんですけど」


 ガラガラ、とキャスターの音を立てて、大橋さんが私のところに来る。


「挙動が変なんですよ」

「変? 具体的には」


 首だけを向けて、彼女のディスプレイを確認する。

 ワープロソフトが立ち上がっていた。


『私が集めた証拠、スマホに送りましたから』


 それを確認して、私はスマホをチラリと見る。通知が数件、どれも大橋さんからだった。


「ああ、それね。こうすれば解消できるわよ」


 怪しまれないように、彼女の席に移動してマウスを適当に動かし、耳打ちする。


「ありがとう、大橋さん」


 とたん、彼女が口をパクパクさせ始めた。餌を食べようとする金魚みたいだ。


「大橋さん?」

「あ、その、あ──」

「はい深呼吸」


 困惑している様子だったので、少し息を吸って吐いてを繰り返させる。それで落ち着いたらしく、


「なんでも、ないです。はい」


 と言って目線を逸らした。


「そう? ならいいけど」


 そう口では言いながらも、不思議に思っていた。いったい何が理由で挙動不審になっているのだろう。


「と、他の仕事はどう?」


 ついでに進捗を確認する。彼女が仕事できるのは知っているけど、私が事実上課長の代行をしているわけで、定期的に確認する必要があるのだ。

 よく考えれば、平社員の私がなんだってこんな事をしているんだ。暴言吐かれて、その上余計な仕事まで。


「こんなんだから、死にたくなるんだろうなぁ……」


 無意識のうちに、そう呟いていた。

 言ってから、失態だったと気がついた。真横に大橋さんが居るっていうのに。


「何か言いましたか、先輩?」

「い、いいえ。なんでもないわ。そう、なんでもないの」


 聞こえていなかった事に安堵する。誰かに聞かせるような事じゃないから。

 大橋さんは顔に疑問符を貼り付けて、


「そうですか。で、仕事の進捗ですよね」


 と切り替えた。言葉だけで、顔には相変わらずの疑問符だったけれど。


「とりあえず、問題はないです。ほら」


 進捗表を見せてくれる。言葉に偽りなし、問題はなさそうだ。


「いつもありがとう、大橋さん」


 自分の机から、非常食のチョコレートバーを持ってくる。


「これ、ご褒美。あと今朝のお礼。みんなには内緒でね」


 唇に指を当てて、秘密のポーズをする。いや、私なんかがやっても可愛くないんだろうけどさ。


「ひゃ、ひゃい……」

「じゃ、そういう事で」


 仕事はまだ山ほど残っている。半分ほど本来私のタスクじゃないのは、まぁこの際捨ておこう。

 しかし、と考える。彼女の私を見る目がなにか異質に感じられるのは気のせいだろうか──。

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