第7話 Alc.
「かんぱーい!」
「はい、乾杯」
駅前のビルに入居している居酒屋の、二人掛けテーブルに座って、グラスをぶつけ合う。時刻は夜九時半、ラストオーダーまではあと二時間。
大橋さんの手にはビールジョッキ、私の手には烏龍茶があった。
彼女はジョッキを一気に煽り、息を吐く。
「課長がいないと仕事捗るっすよねぇ」
「わかるわ、それ」
管理職とはいったいなんなのだろうか。そう思いながら烏龍茶に口をつける。
「つか、課長のあたしを見る目どうにかしてくださいよ。ほんと、胸と尻ばっか見てるんすよ」
「なんとかしてあげたいけどねぇ……私、弱いから」
「課長に対しては特に、と続けるんすか」
まぁ、とお茶を濁して食事に箸を伸ばす。塩の効いたもも肉の味が、空腹の体に染み込む。
「あんだけパワハラされてるんすから、証拠集めて上に出せば──んぐ」
大橋さんが言葉を途切らせて、残ったビールを一気に煽った。
「なんとかなると思うんすけどね」
「そうはいかないのよ。第一、小心者な私にそんな度胸はないわ」
女子高生を買う度胸はあるのに、と内心で自罰的に呟いた。気持ちがどんどん落ち込んでいく。
目線を上げると、大橋さんがこちらを見つめていた。
「……らい」
「大橋さん?」
「暗ーい! すみませーん、ビール二個追加お願いしまーす!」
突然の大声にびくりとする。びっくりさせないでよ、もう。
すぐにビールジョッキが二つ、テーブルに置かれる。
「先輩もほら、飲んで飲んで。嫌な事はお酒で忘れましょうよぉ」
「いや、私は」
「別に飲めないわけじゃないですか。見てましたよ、駅のコンビニでビール買うところ」
「……はぁ」
ため息を吐いて、ジョッキを持つ。
別にお酒の味が嫌いなわけじゃない。そういう意味では、躊躇する理由もない。
ジョッキに口をつけ、喉に流し込む。苦味が先に来て、後から麦芽の香りが鼻に抜ける。炭酸の清涼感がたまらない。
同時に、思考回路に侵食するアルコールの感覚。頭の中がボンヤリとし始めて、思考の輪郭が消えていく。
「お、いい飲みっぷりじゃないですか」
「あぁ、美味い! んで、焼き鳥が──」
今度はタレのもも肉を口に放り込む。即座にビール。
「あぁ、いい。すみません、もう一杯ください」
日々の疲れが消えていく感覚。何もかも忘れて自由になれる錯覚がした。
これに依存しそうになる。何もかも忘れて、お酒に溺れてしまいたくなるのだ。
お酒を避けている理由の一つである。
「先輩、やっぱ美人ですよねぇ」
「もう、またその話? 私は別に……そういう大橋さんの方が可愛いし、浮いた話とかないの?」
「あたし? 全然全然」
と彼女は手を胸の辺りで大袈裟に振って否定する。
それとほぼ同時に、ビールジョッキが運ばれてきた。
「あたしこそモテませんよ……いや、年上受けはいいんでしょうけど……」
イジイジと机に丸を描き始める。そういうところが愛らしいと思う。
「あぁ……課長かぁ」
課長に殺意が湧く。まぁ、殺せるほど度胸があるのならさっさと殺しているわけなんだけど。
その殺意を飲み込むように、ジョッキを半分ぐらいまで空にする。
「でもぉ、好きな人はいるんですよ」
と、彼女はゆっくりとジョッキを煽った。私もゆっくりと飲み続ける。
「……ほんろ?」
「あ、先輩呂律回ってない」
ケタケタと大橋さんが笑う。こんな笑い方をする子じゃないから、酔いが回っているのだろう。
よく見れば、顔も赤く染まりつつあって、大人っぽい色気を醸し出していた。
「む……なんか、大橋さん」
エロい。なんというか、すごくエロい。
「ん? なんですか?」
「あ、ううん。なんれもない」
誤魔化すようにジョッキに口をつける。中身はすでに空っぽだった。
「あ、おかわり頼みますね。すみませーん」
彼女がビールを頼むのをぼんやりと眺めながら、さっき抱いたモノについて考える。
エロい、言い換えれば色気というモノにもいろんな種類がある。
で、今大橋さんに感じたのは単純な性欲由来のエロさ。男目線に立った場合にセックスしたいと思わせるエロさだ。二十代半ばというちょうど良い年齢と、その胸の大きさ。顔もいいし、そりゃあ抱きたくもなるだろう。
一方で、昨夜エリナに感じたエロさはなんだろうか。性欲由来なのは間違いないけど、何かが違う気がする。
その違いがわからない。
「お待たせしましたー」
とビールジョッキが置かれて、私の思考が中断された。私は大真面目に何を考えていたんだ。こんな思考、エリナにも目の前の大橋さんにも失礼じゃないか。
その罪悪感から逃れるように、ジョッキを手に持って一気に煽る。
「先輩やっぱ飲めるんじゃないですかぁ」
もうろくにモノも考えられない。何か色々口走ってる気がするけど、自分が何を言っているのかもわからない。
目の前からツマミが消えていく。だから追加でお酒とツマミを注文して、それで──。
「うぅ、頭痛い……」
「もー、先輩飲み過ぎですって」
この有様である。
「もう、電車来ますよ」
「あー、うん。わーてるわーってる」
これは酷いと思う理性は一割程度で、残りは酔いのせいでまともに思考してくれない。
大橋さんは自身のバッグに手を伸ばす。
「先輩……大丈夫ですか? 飲みかけですけど、水飲みま──」
大橋さんが言い切る前に、ペットボトルを奪い取って一気に喉に通す。ぬるい水が血中のアルコール濃度を薄めてくれる──なんて事はなく、何も変わらない。
「ほら、電車来ましたよ」
大橋さんの肩を借りて、電車に乗る。彼女に誘導されて椅子に座った。
「もう、お酒弱いんなら言ってくださいよ。そしたら飲ませなかったのに……」
大橋さんの非難めいた視線を感じるような気がする。気のせいかもしれない。わからない。そこまで思考が回らない。
「けど、良いもの見れたなぁ……先輩、酔うとこんなにキャラ変わるんだ……」
ボソリと彼女が呟く。意味はよく理解できない。
「あ、そーら。かな子ちゃん、好きなひろって、られ?」
そんな事より、気になる事を訊いてみた。
「え⁉︎ 好きな人ですか⁉︎」
「そーよぉ。さっきいってらじゃない」
「言ってましたっけ、そんな事」
「いってらいってら」
「……秘密です」
大橋さんは唇に人差し指を当てて、そう言った。うん、
「かな子ちゃん、エロい」
「ぴゃ⁉︎」
「ねー、キスして良い?」
「ダダダ、ダメですぅ」
断られた、残念。というか、大橋さん顔が真っ赤だ。お酒を飲んだ時よりも赤い気がする。
私はコテン、と首を倒して大橋さんの肩に頭を乗せる。
「せせせ、先輩!」
人肌が心地よい。それもあってかこうしていると、急速に意識が飛んでいきそうになる。
というか、寝ちゃいそう。目を開けているのも億劫になってきて、そして──。
──意識を失う瞬間、唇に柔らかいものが触れたような気がした。
「先輩……」
それと、やけに湿度の高い声も。
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