第5話 マッサージ(健全)

「あー、いいお風呂だった」


 湯船から上がると、エリナは肩を伸ばしながらそうこぼした。


「あ、今の年寄り臭かったかな」

「かもしれないわね」


 そう返事すると、エリナが笑った。


「けど、いいんじゃない? いい湯だったのは確かだし」


 私は備え付けのバスタオルで体を拭く。久しぶりの湯船は、凝り固まった私の全身を温めてくれた。これでマッサージでもあれば、体も回復するというものだ。


「おねーさん、これからどうする?」

「そうね。話し相手になってくれる? それと、軽いマッサージとかってできたり……」

「マッサージ? うん、いいよ。じゃあ、何も着ないで、ベッドに横になって」


 いつのまにか全身を拭き終えたエリナが私にそう言った。私は脱衣所を出て、ベッド脇に移動する。

 ……それにしても色っぽい。風呂上がりの彼女は、血行が良くなっているのか頬が紅く、それに加えて髪の毛が頬に張り付いていて色気が増している気がする。

 ごくりと、無意識に生唾を飲み込んでいた。同性の私から見ても魅力的、率直に言えばエロさを感じていた。


「──あ、っと。うん、わかったわ」


 首を振って、変な想像を掻き消そうとする。一瞬でも、想像してしまったのだから。

 今の私の立場なら、あの体を好きにできる。同性だけど、性交渉をする方法なんていくらでもあるし、彼女は立場上それを拒むことはできない。

 そうする事を一瞬想像してしまった。あの胸を揉みしだいて、そのままベッドに押し倒して──。

 そこまで想像して、私は舌を思いっきり噛んだ。鋭い痛みが思考を強制的に止めてくれた。同時に口の中に血の味が広がった。


「澪おねーさん?」

ひゃんへもひゃいひゃなんでもないわ


 痛い。めちゃくちゃ痛い。けど、心はスッキリした。一回りも年下の、しかも同性の子に欲情していたなんてどうかしている。


「なにその喋り方。面白いね」

「そ、そうかしら」


 痛みに耐えて発した音が、彼女にはウケたらしい。なにが面白いのか、私には不明だった。


「ま、それはともかくうつ伏せで横になってよ。ほぐしてあげる」


 下着を着けながら、エリナはそう言った。豊かな胸部が、ブラジャーに隠されていく。

 ちょっと惜しいと思ったのは秘密だ。

 言われるまま、ベッドに寝転がる。全裸なので、シーツとマットが文字通り体を受け止める感覚がした。柔らかなマットだ。


「じゃあ、行くね」


 エリナが私に馬乗りになった。と言っても、重さはない。ギシリ、とベッドがなり、彼女は膝立ちの要領で私の上に来たのだ。重さで彼女の膝回りが沈む。

 次いで彼女は手を私の肩に手を置いた。親指を肩甲骨のところに当て、力を入れる。


「んぁ、っ」


 急激に体が解されていく感覚。絡まった糸に棒を入れて、ゆっくり紐解いていくような快楽だった。


「ぁ、くぁ」


 それに、唇を噛んで耐える。この快楽に溺れたら、どうなるかわからない。


「うわ、おねーさんすっごい硬い。事務職?」

「そう、ね。じむしょ、んぁ、く」

「やっぱり。この感じはパソコンとかで強張った人の肩だもん」

「詳しい、のね」

「お客さんの中にはそういう人もいるから。前戯でマッサージとかしてあげると喜ばれるんだ」

「そう、なの」


 思考がバラけていく。エリナの言葉が頭の中で霧散し、意味を失っていく。

 神経中枢に電気ショックを与えられているのだろうか。快楽が全身に広がっていき、肉体が制御できなくなって、痙攣し始める。


「気持ちいいでしょ?」

「う、うん。気持ちいい、わ」


 指は肩から腰に向かって少しずつ下がっていく。なにも着ずに、と言われた意味がわかった。

 要するに、ブラジャーは邪魔なのだ。マッサージするのに。

 肩から腰に、腰から臀部に、臀部から脚部に。慣れた手つきで解されていく。すでに思考は壊れていて、ろくな判断ができない。


「っと、これで終わり。いかがですか、おねーさん」


 突然快楽の供給が途絶えた。神経中枢を流れる電流が一気にカットされ、私の全身から熱が引いていく。

 少しの間、わずかに残った余韻に浸る。末端に残る痺れが心地よい。


「……ん」


 体を起こす。そして数回肩を回してみた。


「軽い。すごく軽くなった」


 ずっしりと重い肩が、まるで赤子の肩のように楽に回るようになっていた。

 ベッドから降りて、上半身を左右に曲げる。こちらも滑らかな動き。


「マッサージってこんなに楽になるんだ。ありがとう」


 ベッドに腰掛ける。


「喜んでくれてよかった。でも、澪おねーさんは普段から運動してないっぽいし、栄養も偏ってるし、数日で戻っちゃうと思うよ」

「そうなの? それは嫌だなぁ」

「体が不調だと心も病みやすいからね。おねーさんはもうちょっと運動しようね」

「はーい。……なんか、お母さんみたいだね」


 ポロリと、そう言ってしまった。優しい母の姿を、エリナに幻視してしまったから。

 こんなお母さんに育ててもらいたかったなぁ。


「お母さん、かぁ。うーん、どうだろう。わたしが子供産んでも、嫌がるんじゃないかな、その子は」


 エリナはどこか悔いるような目で、でもなんでもないような声でそう言った。


「どうして?」

「わたしは……まぁ、子育てに向いてないと思うしさ」


 途中何かを言いかけ、明らかな誤魔化しで彼女は会話を切り上げようとした。

 追求するか否か。踏み込んでいい問題か否かという話になってくるし、そこには今は踏み込めない。


「そうなのね。まぁ、人には向き不向きがあるし、うん。別にそう考えるのは変じゃないわ」


 だから、私はそう言った。当たり障りのない言葉に逃げたのだ。


「さ、寝ましょう。マッサージして疲れたでしょう?」


 私は再びベッドに横になる。今度はうつ伏せではなく、横を向いて。


「うん」


 エリナがベッドに潜り込んでくる。彼女の白い頬が視界に入って、風呂上がりの時に彼女に感じていたモノを思い出してしまった。

 同時に、その昏い瞳──何かを堪える瞳を綺麗だと、そう思ってしまった。


 ──最低だ、私って。


 なにが一番最低かって、間違いなくこの感情が性欲由来のものだという事。


「おやすみ、エリナちゃん」


 その劣情を悟られないように目を閉じてそう言った。

 軽くなったはずの肩が、今までよりずっと重く感じられた──。




「ぁ……」


 気がつくと、朝日が差し込みつつあった。まだ少し寝足りなさを感じる。頭が痛いし、重たいのだ。

 少し肌寒い。それになんというか、体全体がやけに軽い。服を着ていないレベルで軽い。

 目を開ける。目の前には美少女の顔。布団の隙間から鎖骨が見えることから、パジャマは着ていないらしい。


「……あ」


 そうだ。昨日仕事で嫌な気持ちになって、この美少女──エリナを買ったんだった。

 ではここはラブホテルか。

 エリナを起こさないようにベッドから降りる。顔を洗おうと脱衣所に向かい、洗面台に向き合う。

 そこにいたのは、痩せこけた姿の私。肋まで見えている私。つまり、


「寒いはずだわ」


 全裸の私。

 ちなみに、寝る直前までの記憶はちゃんとあるので、手を出していないのは間違いない。

 浴室を覗く。まだお湯は湯船にある。いや、もう冷えてそうだけど。入ったら風邪ひくだろうし、シャワーだけ浴びようかな、と思って浴室に入る。

 温かなお湯は、しかし昨夜エリナがしてくれた時とは違って無機質に感じられた。


「あれ、もう起きたの」


 いつの間に起きたのか、浴室にエリナが入ってくる。私はシャワーを止める。


「目が覚めちゃって」

「よく寝れた?」

「寝れたわ。マッサージしてくれたおかげかも」

「ならよかった」


 満足げにエリナは笑い、シャワーを浴び始める。


「おねーさんこれからどうするの?」

「一度家に帰るわ。出社前に服を替えないと」

「今日も仕事なんだ。大変だね」

「大変だけど、お金がなくちゃ生きていけないもの」


 エリナはシャワーを止める。返事はない。ややあって、


「そっか、そうだよね」


 とだけ返事をした。




「じゃ、私はここで」


 橋の上で、エリナにお金を渡す。一万円札三枚、それが彼女と一晩居て私が払うお金。


「また会いたくなったら連絡するから」

「わかった。待ってるね」


 これで彼女との関係性は終わり。次に関係性を構築するときは、またこちらからコンタクトを取る。

 改めて、歪な関係性だと思う。この歪な関係を良しとする事は決してあり得ない。

 だけど、今の私には必要なモノだった。たった二回会っただけで、私は彼女に──少女を買うという行為に依存し始めているのだった。

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